すかしたフィルター

頭の中ってごちゃごちゃしてるよね。

お金についていま自分が考えていること。

お金についてすこし考えてみます。

いま、僕はとてもお金がほしいです。

それは、やはりないと不安だからです。

あれば、あっただけ自由になれるからです。

だからいま、お金がほしいと考えています。

そう思うことが悪いとか、後ろめたいとか、

そういう風に思っているわけではないのですが、

なんとなくきまりが悪かったり、居心地が悪かったりしています。

それは「お金じゃないよ」という価値観で生きている人がいるからです。

そういう価値観で生きている人はなんとなくうらやましいです。

なぜなら、その人たちはお金について悩んでいないように思えるからです。

なんとなく高尚な人間に思えるからです。

高尚な、というのがよくわからない部分なのだけど、なんとなくそういう気持ちもわかってもらえると思います。

私が恐れているのは、この「お金がほしい」という価値観がなんとなく間違っているような、なんとなく声に出しづらいような、そんな空気があるような気がするのです。

それは、ただ単に「日本人は商売っ気がない」「日本人はお金を稼ぐのが嫌いだ」などという、日本人としての気質ではなくて、

いまの日本人、ひいてはゆとり世代といわれるような飽食の世代が持つ感覚と自分が乖離しているのではないか、という恐れです。

ゆとり世代、さとり世代は、飽食の時代を生き、お金についてあまり頓着しないというか、お金よりも余暇や友人とのつながりを大事にするといいます。

その尺度から自分は遠ざかっているのではないか。

もちろん、人の顔色を見ることでしか、自分の位置を認めることができないのか、という批判はあると思います。

みんなと一緒じゃないのが怖いというわけではないんだけど、

「えっ、みんなお金ほしくないの?ほんとに?大丈夫?」みたいに思っています。

NPOに勤めたり、地方で最低限の暮らしをしたり、それこそ最強のニートになったりする人が出てきたり、お金に対する価値観を考え直そうとしてる人が増えているみたいです。

でも、自分はそうはなれないです。いまのところ。

まだ、お金に使われているように思える。

お金という価値観、資本主義がどこまで人を幸せにするのか、という問題がここにはあって、

お金があるだけ与えられて、なんでも手に入れられる生活って幸せなのだろうか、という問題。

いま、この問題に立ち向かってる人って多いと思う。

いっぱい作って、いっぱい捨てる、という価値観ではなんとなくうまく立ち行かなくなってきた。

というよりも、豊かにはなったけど、おもったよりいいものでもなかったということかもしれない。

ほしいものを手に入れた先に、なにがほしかったのかわからなくなるといったような。

カタログ的なものの価値観、つまり、いろんなものがカタログに入っていてそこから「どこそこのアレ」を選び続けていく。カタログはどんどん厚くなるし、こちらはカタログに載っているものがぜんぶほしくなる。

カタログにチェックリストをつけていくような。

チェックリストを放棄するような生き方を目指している人が多いのだと思う。

そういった問題をひらりとかわして(実際はひらりではないのかもしれないけど)いる人をみると、自分がすこしまだまだなんじゃないか、と思ってしまう。

自分はまだ欲を扱いきれていいないから。

そういう人たちはうらやましく見えてしまう。

 

お金に対するわたしの目標は大事なことは「お金」なのか「お金じゃない」のか見分けられるようになることである。

お金で幸せは買える、買えないものだってあるけれど、買えるものは買える。

聞くところによると、ある一定の水準で得られる幸せは変わらなくなるそうだ。

1000円のワインと100万円のワインでは相当な差があるに違いない。

しかし100万円のワインと1000万円のワインではあまり差は感じられないのだという。

食べ物としてのおいしさというのはあるところで限界が来てしまう。

人間として知覚できるおいしさは金額とは比例しないということらしい。

99点のものを100点にするためには10点を50点にするよりも莫大なコストがかかるということも言えそうだ。

その基準に到達した人には「お金じゃない」といえるのかもしれない。

それは、わからない。

お金って、難しくてよくわからない。

人目のつくところではあまり話すこともできないし、あまりいい顔をされない。

だからとりあえず、ある一定の水準を手に入れられるところまで頑張ってみようと思う。

そうしたらすこしずつわかってくるかもしれない。

 

今回のきっかけになったもの。

ほぼ日のお金特集。

何回か読み直しているけど、これはとてもおもしろい。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 『お金のことを、あえて。』糸井重里によるイントロダクション。

 

このエントリは、読み返すために書かれたものです。

 

あそびあい 蛇足編

以前書いた感想編の続きです。

 

morojun.hatenablog.com

 

個人的に気になったことをまとめます。

がっつりネタバレします。

結末 ハッピーエンドかバッドエンドか問題

初めて読んだときは、「ああ、結局小谷は変わらないんだな・・・」ともやもやして、山下と一緒になる未来が想像できなかったんですけど、何回か読んでたらちょっとずつ感覚が変わってきました。

小谷、ちょっと変わったじゃん。

小谷は、卒業式の前日、みおと部屋の片づけをします。そのとき、自分のお皿をいったん空っぽにして、”自分がすきなものでいっぱいにしよう”と決めます。

これが、山下のおかげなのか、というのはちょっと微妙なところですけど。

段ボールの底から、山下からの手紙が出てきたとき、小谷は、あの山下のうちで「セックスをしないで抱きあった」ことを思い出します。

そして一度捨てます。

ものを捨てるって、過去の清算ですよね、いったんなかったことにする。

山下のこともいったんなかったことにしちゃうのかと思いきや、そうじゃない。

卒業式のあと、小谷と山下はつれあって帰るわけですが、ここで小谷は自転車に乗りません。

初めて一緒に帰るときには先に自転車で行ってしまったのに、今回は小谷が待っていてくれます。

誰かに見つかってももうよくなった、と考えるのはちょっと早急に思えます。学校の敷地内かどうかはわかりませんし。

探してみたんですが、ふたりの自転車のシーンって一巻の初めのほうで一緒に帰るときくらいですね。

というか山下はなんで自転車じゃないんだろう。河原で別れ話するシーンでは二人とも乗ってるのに・・・あ!自転車の後ろに小谷を乗せたいだけか!

ともあれ、校門出てから、さっさと自転車に乗らないってことは、山下を待っていたってことですよね。

小谷のお皿の上に山下は乗っけられたんでしょうか。

変わる前の小谷でも、変わった後の小谷でも、山下と一緒に帰っていたような気がします。でも前の小谷だったら、また山下と「したい」と言いそう。

山下の「俺にしてほしいことある?」という問いに「卵買いに行くのつきあって」と答えた小谷。

この答えはイエスなのかノーなのか。

第一話で山下としかしてないこと、として「タイムサービス一緒に並んだ」と小谷は答えています。

で、また特売に並ぶように誘われる。

これは山下をお皿に乗せたと思ってもいいんじゃないか・・・?

と、思うけどさ、今まで小谷が付き合ってきた人って、一緒にスーパーに行ってくれるような人たちじゃないんですよね。

浮気してる金髪のろくでなしとか、第二日曜日にしか会えない家に木が生えてるおっちゃんとか、セックスの時が一番しゃべる八百屋のおいちゃんとか。

周りから見つかったら困るような人とか、特売の時間に一緒にいられない人たちばっかりなんですよ。

山下だったら見つかってもクラスメイト、で済むわけですし。

 山下はちょうどよかっただけなのかもしれない。

でも、「したい」って言っちゃったらそれはぜんぜん変わっていない小谷になっちゃう。

かといって「山下とじゃなきゃやだ」って言ってるわけでもないんですよね。

ちょっとキープされてるだけかもしれませんし。

小谷と山下が抱き合ってから卒業式までの間には何も描かれていません。

小谷がいったんお皿をからっぽにすると言ったのは卒業式、引っ越しが決まってからです。

やっぱり想像せずにはいられないんですよね、小谷が他の人としているところを。

勉強を教えてくれる近所の大学生とか、八百屋さんとか、その他もろもろ。

描き方としては小谷は一生懸命勉強した、ということになってるけど、ほかの誰ともしなかったと描き方ではないんです。

行間を読んだらキリがないのはわかってるんですが・・・。

 

小谷って前日から特売に誘おうと考えてたのかな。卒業式の前日にみおに明日は特売だから遊びに行かずにスーパー行くっていってますし。

結局ハッピーエンドかバッドエンドかなんて結論は出ないんですけど、

山下、これから小谷と付き合って行けるのかな。

小谷目線から見たら、すこし変わって、まっとうになったとは言えるのかも知れないですけど、どうも小谷の本質は変わってないような気がするんですよね……

この違和感がどこに端を発するものなのか、ぜんぜん、わかんないんですが。

 

蛇足の蛇足

1巻の表紙について

この表紙、すごいすきなんですよね。
小谷と山下が対照的で。
小谷はおもちゃの山の上で、女王様のように君臨している。
おもちゃの中にはヘリコプターやなんかの普通のおもちゃもあって、
そこには「大人のおもちゃ」も含まれている。
ちょうど小谷のたとえにあった、すきなものはなんでもお皿の上に載せてきた、と同じように。
カバーを外すと、大人のおもちゃがよりわかりやすく描かれています。
(さすがに表紙には載せられなかったんですかね)
大人のおもちゃの内訳をみてみると、小谷の経験豊富さがわかりますけども……

 

性の支配者としての小谷

小谷がなぜ女王として君臨してられるかというと、セックスにかけるコストがめちゃめちゃ低いからです。

そしてかつ、そのコストに見合わない価値を小谷が有しているからです。

高校生という価値を、破格の値段で売り出しているからです。

小谷はそれをわかってるんですね? 

 って考えようとしてたんだけどうまくいかなかったのでとりあえず公開。

 

 

 

『マチネの終わりに』  感想:過去に向かって生きるということ

どうも、モロヅミです。

少し前に平井啓一郎さんの『マチネの終わりに』を読みました。

kindle unlimited で読み放題対象になっていたので手に取ったのですが、とても面白かったので感想を書きます。

・・・とはいうもののこないだうっかりkindle読み放題対象から外してしまったので内容を確認する術がないのですが。

kindle unlimitedは10冊まで読み放題登録ができて、新しいものを読むためには現在登録中の本を削除しないといけないんですよね)

で、その本の中に、「過去は変えられるかどうか」なんて話がでてくるんですね。

主人公とヒロインは「変えられる」というんです。それは、過去に起こった事実を変えることができるという意味ではないんです。

つらい過去があっても、そのつらいことがあったおかげで、自分は前に進むことができた、と考えれば、過去の事実はつらいことではなく、よかったことになりますよね。

確かにそういうことってあるなあ、と思ったんです。

あんまりいい例えじゃないかもしれませんけど、中学校のとき、すきだった女の子に告白しようと一緒に帰りまして、結局告白できなかったんですね。

そしたら次の日先輩に呼び出されて「俺の女に手を出すな」なんてことを言われまして、当時その子が先輩と付き合ってることなんて知らなかったんですね。

そのときはなかなかどうして苦い思い出ではありましたが、今となってはなかなか飲み会で笑っていただけるネタとなってますし。

じゃあそれがどうよかったかといわれると未だに苦いままなんですけど。

 

つまり、どんな過去もそっくり同じ思い出のまま残しておくことはできないんですよね。

そんなことを意識させられました。

 

村山由佳の「天使の梯子」という作品にこんなエピソードがあります。

あるとき、主人公のフルチンは愛する祖母を亡くしてしまう。一緒に住んでいた家は祖母を思い出させるから、その場所で暮らしていたくない。

主人公の恋人は彼が祖母と一緒に暮らしていた家の様々な場所で彼とキスをするんです。

「これがこの家での一番新しい記憶よ。つらくなったら思い出して」

思い出は、上書きすることはできないけど、増やすことはできるんですよね。

過去を変えられるわけではないけど、自分の在り方は変えられる。

 

そう考えていくと、僕らは決して未来に向かって生きているわけでもないのかもしれないですよね。

物事が起こるのは未来だけれど、それを作っているのは過去なわけだし。

当たり前ですけど。

過去に向かって生きる、というと後悔して前に進んでいないようにも思えるけれどもそうではない側面もあるんじゃないかな、と思っています。

最近僕は、過去の自分を救わなきゃいけないような気がしてます。

人生の岐路に立たされた時、自分は正しい行いだけをしてきただろうか?

決してそんなことはなくて、あの時ああすればよかった、あのときあれをしなければ、なんて後悔はしょっちゅうあります。

なかでも自分が努力してこなかったことや、自分が道を誤ったことについては今の自分しか救えないんじゃないか、なんて。

つまり、過去の失敗の埋め合わせをしてあげることで、失敗や、過ちをきちんと消化できるんじゃないかな、と。

 

こないだ、自分の職場から転職した人が言ってました。

「自分は高校、大学と、全然努力をしてこなかったし、自分の人生についてなにも考えてこなかった。だからそれなりに苦しんできたし、大変だった。苦しんでいるままだと、昔の自分のせいになってしまう。そういう意味では過去の自分に手を差し伸べているような気分なんです」

過去の自分を救うことは、過去の自分の行動にきちんと意味を見つけてあげること、そして、決着をつけてあげることなのかな、なんて思っています。

『マチネの終わりに』の感想としてこれでよかったのかな感はなくはないですけど、これに関してはおもしろかったので皆さんにお勧めしておきます。

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

 

失恋を乗り越える方法 ソフィ カル 「限局性激痛」に学ぶ

どうも、モロヅミです。

 

突然ですが。失恋をしたことがありますか?

ないという方は、とてもうらやましい、いやどうだろう、いっかいくらいはしてみた方がいいかも?

まあともあれ、愛する人を失うってのは大変つらい出来事です。

自分が1度ばらばらになって、自分の欠片を拾い集めて、自分ってなんだろう、自分の何がいけなかったんだろう、なんで愛してくれないんだろう、だなんてつらーい作業に陥りますよね。

 

われわれはどうやってこの哀しみを乗り越えるべきなんでしょう。

どうしたらすっかり忘れて、ひとつの経験として、消化できるようになるんでしょうか。

 

なかなかね、難しいんですよねこれが。

やれ「新しい恋をしろ」だの「仕事に打ち込め」だの‥‥

そんなのができたら苦労しないんですよ。

 

じゃあどうすればいいんだろう、といったところで今回の作品のご紹介です。

 

今年の5月くらいに、原美術館で、ソフィ カルの「限局性激痛」という作品を見ました。

以下は原美術館による作品解説です。

 

 【ソフィ カル 「限局性激痛」とは】

限局性激痛」とは、医学用語で身体部位を襲う限局性(狭い範囲)の鋭い痛みや苦しみを意味します。本作は、カル自身の失恋体験による痛みとその治癒を、写真と文章で作品化したものです。人生最悪の日までの出来事を最愛の人への手紙と写真とで綴った第1部と、その不幸話を他人に語り、代わりに相手の最も辛い経験を聞くことで、自身の心の傷を少しずつ癒していく第2部で構成されています。

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今回、原美術館に展示されたのは、第2部です。

第2部は、自分の失恋話を語っていくテキストと他人のつらい経験をくみ取ったテキストを一つの対となる形で、失恋の傷が癒えていく半年間の間、十数人からの聞き取りの結果があらわされています。(写真の黒地のほうがカルのもの白地のほうが聞き取ったものです)

テキストが書かれているのは、本物の布です。布に文字が刺繍されているのです。

内容は日本語に訳されているので、わたしたちにもそれを読むことができます。

ぜひ自分の目で、と言いたいところですが、この展覧会はすでにしまっています。(もっと早く書けばよかったのですけどね)

ここにはカル自身の、どうしようもないくらいの生々しい感情が表現されています。

「約束をしたのにどうしてこなかったか」

「私と会わずにほかの女と会っていたのは許せない」

「こんな扱いを受けるくらいなら会わなければよかった」

うろ覚えですが、このような恨み言がつらつらと書いてあります。

もう一方の白地のテキストには、失恋話を聞いてもらった相手のつらかった出来事が書いてあります。カルは、自身のつらいことを話した後に、相手のつらいことを聞き取っているのですね。

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展覧会では、部屋一面に彼らの対話が敷き詰められており、彼らの対話の道のりが見て取れます。

そこにはカルの失恋から立ち直る姿が見て取れます。

ここに僕らがカルに学ぶことかもしれません。

カルの対話を見ていると、初めはカルのほうがテキストが多いんですよね。

後半になるにしたがって、カルのテキストが減り、対談相手のテキストの量が増えていくんです。

通して読んでいくと、だんだんとディテールが減っていくのがわかります。

「何月何日、彼はこういった」「私はこうつらかった」といった部分が、ただ単に「フラれた」出会ったり、「つまらない男だった」といった相手を貶めるような言葉も出てきます。

僕らは、完全に忘れることもできませんが、完全に覚えていることもできないんですよね。

僕は覚えていることについてディティールを重ねていくことは、傷から血を流すことなのだと思いました。

愛してくれたことや、つらく当たられたこと、というのは細部こそが重要な部分かもしれません。

カルのテキストを眺めていると、だんたんとその出血の量が減り、かさぶたができ、傷がふさがっていくのを見て取ることができます。

彼女がしたことは、「人に自分の失恋を話す」そして「人のつらい過去を聞く」ということです。さらにそれを記録に残す、ということです。

つらいとき、人に話を聞いてもらいたくなります。

それは、「話す」という行為が「癒し」につながっているからです。

感情の波を事細かに記述し、吐き出していく行為が自らの傷を癒してくれるのです。

そして、なにより重要なのは、それとは反対に「人を癒す」という行為なのかもしれません。

人のつらい記憶を聞き取りながら、彼女は対話者の重荷を少しずつ受け取ります。

他者の痛みを受け取ることが反対に自分の痛みを減らしていくことにつながる。

 

だから私たちも、「誰かに話を聞いてもらう」そして「誰かのつらい気持ちを癒す側に回ってみる」といったことで失恋を克服できる、と考えられます。

ここまで話してきておいて、結論がこれかよ、という感じですが。

まあ結局のところそういう話です。

でも、案外正解に近いような気がしませんか。

少なくとも私は、「新しい恋をしろ」よりは現実的だと思いますし、やるべきこともわかってきそうです。

とはいえ、話を聞いてもらう人との関係をきちんとつくっておかなければなりませんし、「そんな友人いないよ!」という私みたいな人とってはなかなか大変なことかもしれませんが。

 

懺悔というシステムはそういった意味でも赦しを得るための最適なシステムであるし、

もしかしたらこの試みも神との対話を模したものだったかもしれません。

という意味深なことを今思いついたので書いておきます。

特に意味はありません。

それでは。

「きのう何食べた?」 ゲイの風景ってこういうことなのか!

こんにちは モロヅミです。

 

主語が大きくてすみません。

今回はよしながふみさんの男性同性愛同棲料理漫画『きのう何たべた?』の紹介です。

こちらは同棲しているゲイのふたりが暮らしているさまを覗き見る(主に料理部分)という漫画です。

 

大げさではなく、この本を読んでからゲイに対しての見方が変わりました。

というか、ぼくはわりと優等生で、「差別はいけないぞー」と本気で考えながら実際にそういうかたがたに出会うと何ともいえない感情を抱いていました。

体験も足りていなかったし、どういうものかわかってなかったんですね。

その点、この漫画ではものすっごく普通にゲイが出てくるんです。

普通に、といってしまうと語弊があると思うんですが、なんというか、ぼくが今までで読んできたものや見てきたものでは「これが同性愛者だ!!」とか「禁断の愛・・・」といったような修飾がたくさんついていたように思えるんですね。

ある種のパワーや主義を作品に載せないと表現できなかったという意味もあるのかもしれませんが。

この作品には、そういったものは出てきません。ただ普通のおっさん(といってもイケメンふたり)が同棲して料理つくっていちゃいちゃするだけです。

 この漫画は「ゲイ漫画だ!」と声高に叫ぶのではなくて、「まあ、こういうもんだよ」と日常の延長線として描いています。

 

僕がこの作品に変えられてしまったのは、こちらのシーンです。

主人公ふたりがオシャレなカフェに行ったときのことです。

店内の女性客がふたりを指さしてきゃっきゃっしている描写があるんですが、それに対してものすごくイラッとしたんです。

 

びっくりしました。

今まで自分がきゃっきゃっしている側にいた事を気付かされました。

今までは自分はそんなことしない、と思ってたのにも関わらず。

それから、僕は同性愛者に対して好奇の目で見るのを辞めました。今までもしていたつもりはないですが、体験として理解して出来た気がしたからです。

 

そして同時に、物語の力の凄まじさを思い知りました。

以前、こんな話を読んだことがあります(確か内田樹の本のどこかだったような)

アメリカである戦争映画を上映したときのこと、燃料が足りず、このままでは目的地に無事着けないことがわかった。

そこで、船長は仕方なく黒人奴隷を海に捨てた。

海に向かって黒人をぽんぽんと放り込むシーンで、拍手喝采が巻き起こったそうです。

拍手をしている観客には黒人も混じっていたそうです。

物語の中の登場人物に自分を投影し、その時は白人側の気待ちになってるんですね。

 

この話を聞いた時、「そんなことあるんかなー」って思ってたんですけど、バッチリありました。

 自分も、彼らの気持ちに寄り添っていました。

いわゆるストレート、異性愛者はマジョリティであり、なかなかセクシャルマイノリティの気持ちを理解することは難しいです。

でも、物語の力を借りればそんなことも出来てしまう。

 

くるりと視点を変えるだけで、新しい自分に出会うこともあるわけです。

 

そんな難しいことを考えなくても、主人公のシロさんが料理をてきぱきと作っていく様を見ているだけで気持ちよくなれますし、出てくる料理はどれも自分で作れるものなので、料理漫画としても優秀です。

個人的なお気に入りは、「アスパラの卵のエビチリソース炒め」「肉豆腐」「酸辣湯」です。

 

きのう何食べた?』はオススメです。

 

 

 

 

 

 

 

 

『君の名は。』 感想 -新海作品を『距離』で考え直してみる-

こんにちは、モロヅミです。

 

君の名は。』見ました?

めちゃくちゃ面白かったです。

めちゃくちゃ面白かったんですが、つい先日、実の姉から「君の名は。ぜんぜん面白くなかったんだけど。どうして?」という難問を突き付けられました。

さんざん考えたのに、全然反論が思いつかず、「うーん、おもしろいものはおもしろいしなあ・・・」という結局のところぜんぜんなんにもならないところに落ち着いてしまったので、しばらくずっと考えていたんですが、「んー、こうやって考えてみたら面白いかも」と思った糸口を発見したので、書いてみます。

新海作品を『距離』で考え直してみる

新海誠が監督した作品はすべて物語の重要な要素として「距離」が登場します。

今回はその『距離』に焦点をあてて、『君の名は。』を考え直していきたいと思います。

僕は、『ほしのこえ』をある動画サイト(確かyahoo!動画かなにか)で見てからずっと新海誠のファンです。そのころはまだ動画サイト、といったものがあまりなく、公式で配信していたように思います。それはたしか小学生か中学生のころで、まだまだ新海誠は「知る人ぞ知る」アニメ監督でした。

こんなにもきれいに情景を描く人を僕は知りませんでした。

そんなこんなでずっとはまりつづけ、新作が出るたび映画館に足を運び、今回もまた打ちのめされてきたわけです。

というわけで、濃淡はありますが、一通り全部の新海作品を見てきました。

(最近になって『秒速』と『雲の向こう』を見直しましたが、他の作品はうろおぼえのところもあると思います。)

 

まだ、新海作品を見ていない人にとってはもしかしたらネタバレになるところもあるかもしれませんが、できるだけ「ほかの作品も見てみたい!」と思えるようなものを書いていきたいと持っていますのでお付き合いください。

出会うことで物理的な距離がゼロになる

君の名は。』は、ふたりが出会って、名前を聞くシーンで終わります。

二人の物理的な距離がゼロになって大団円です。

この作品は紆余曲折あってふたりの距離がゼロになる、という物語なのです。

思えば新海作品では常に「距離」が重要な要素として登場します。

距離にもいろいろとあって、

①物理的距離

②時空的距離

心理的距離

 などがすぐに浮かびます。

これを『君の名は。』に当てはめていくと、

①糸守の土地と東京

②三年前と現在

③夢の中でのつながり(精神と肉体とのつながり)

 といった要素に分けることができると思います。

滝と三葉は夢の中で体が入れ替わって、互いの人生に干渉していくわけですが、このとき、物理、時空的距離を超越し、互いの肉体を共有しているわけです。

肉体を共有するなかで、ふたりはふたりだけのつながりを作っていくのです。

他の人からみたら、わからないけれど、ふたりには絶対わかる。

この絶対的な心の距離がふたりにとっては何よりも代えがたい重要なものなんですよね。誰にもわかってはもらえないとしても。

この繋がりは、三葉の死とともになくなってしまう。繋がりを求めて、滝は糸守の地を探すことになる。

心のつながりを喪失し、それを埋め合わせるために、物理的な距離を縮め、さらには時空を超越しようとするというストーリーなのだといえます。

時空的距離の超越には絶大なコストがかかるので、三葉の残した口噛み酒と、糸守のご神体を祭る場所、あの世とこの世の混じり合う場所が必要でした。

ふたりが出会った時、すべての距離がきちんとゼロになっているんですよね。心も通じて、触れることもできて。

ただ、三葉のおばあちゃん(一葉おばあちゃん)がいうように、あの世へ行ったら自分の大事なものを置いてこないといけない。

ふたりがお互いの名前を忘れてしまったのは、そのせいじゃないのかな、と思います。

お互いの名前を忘れることで、お互いの記憶もなくなってしまう。

距離を縮め、時空をゆがめることで、心の距離にほかの距離を合わせようとした行いに対して、帳尻合わせが行われているのだと感じました。

糸守を救い、舞台は滝が住む東京に移ります。

お互いの存在を忘れ、同じ時間軸、そして同じ東京という場所に生きるふたり。

ここで、物理的距離も時空的な距離がなくなり、あらためて心の距離を縮めていくことになるのです。

 

このようにふたりの距離が近づいたり離れたりして、この映画はできているのです。

他の作品では

他の新海作品でも、「距離」が重要な要素を担っていて、

 たとえば『ほしのこえ』では地球と宇宙に引き裂かれる恋人を描いています。心の距離は離れていないのに、物理的な距離は圧倒的に離れていてどうしようもない。ふたりをつないでいるのは、メールだけなのに、そのメールも距離が離れるにしたがって届くまでの時間が長くなっていく。

物理的、時空的な距離の要素が含まれているんですね。

 また、『雲の向こう、約束の場所』では、夢の中での心理的なつながりを描いています。個人的にはこの作品がとても似ていると思っています。

『雲の向こう』では、ヒロインが眠り続けていて、夢の中でひとりぼっちでいます。主人公はヒロインが孤独で過ごしていることを同じ夢の中で知り、ヒロインを救う決心をします。

彼女をを救う手段は眠りから覚めない原因とされる場所へ連れていくこと。

夢から覚めた時、あるセリフを言うのですが、そのセリフを聞くと、 世界を超越したための通行料やら、コスト、自分の大事なものを置いて行ってしまう、という意味がわかるような気がするのです。

 

夢を通じてつながりが生まれる→場所、距離という条件を満たす→夢の世界から現実の世界へ飛び越えることができる→超越の代償を払う

という流れが、『君の名は。』とそっくりだとおもいませんか。

 

と、『距離』をテーマに作品を考えていくと、面白いのではないか、という試みでした。

今回は書きませんが『秒速5センチメートル』でも距離というのは重要な要素ですし、『星を追う子ども』では現世と異世界との境界を越え、死後の世界とのやり取りも出てきますし、もっと違う見方もできるかもしれません。

おわりに

今回、『距離』について考えてまとめてみました。距離だけでなく、境目を超越することであるとか、代償として失ってしまったものや、失いつつも残っているものであるとか、そういったものに気をつけて見ていくと、新たな発見がありそうだなあと。

あと、これを書くためにほっとんど監督のインタビューも見てませんし、他の人の感想もぜんぜん見てないので、これからそれをあさりに行きます。

もし、ぼくとおんなじ考え方の人がいたら握手しましょう。

では。

 

 

 

 

ポケモンすごい ~僕は感動している~

どうも、モロヅミです。

いやーポケモンすごいですね。

右を見ても左を見てもみんなプレイしてますね。

上野公園ではそのポケストップの多さからお祭り並みに人が出ているようですし。

リリースされた瞬間から周りが色めき立って、口々に「ポケモンやろう!」ってなってたのもびっくりでした。

正直ここまで人気が出るとは思ってなかったんですが、さすがはポケモンです。

 

ところで、僕はIngressプレイヤーです。(Ingressではプレイヤーのことをエージェントといいますが、プレイヤーで統一します)

いまでこそ散歩をするときに起動するくらいのゆるゆるプレイヤーですが、始めた当初は本当にハマりました。

初めて一週間くらいでレベル8(レベル8になるとゲーム中のすべてのアイテムが使えるようになり、それからはレベルによる差はなくなる。それゆえ、「レベル8までがチュートリアル」ともいわれる)まで上げてしまいましたし、通勤はもちろん、帰ってからもアイテムを集めたり敵の陣地を攻めに行ったりしておりました。

地元のプレーヤーとの交流もあり、このゲームを楽しんでいるのが自分だけじゃないんだ、とうれしくなりました。

 

Ingressのキャッチコピーは

「The world around you is not what it seems.」(あなたの周りの世界は、見たままのものとは限らない)

です。

始めた当初、いろんなものがポータル(ポケモンで言うポケストップ)になっていて、それを回るのがとても楽しみでした。

普通の人が足早に通り過ぎるそこは、僕らにとってアイテムが入手でき、陣地を拠点になる重要な場所なのです。

そこを歩いている人と、Ingressプレイヤーでは見ている世界が違うのです。

そのギャップが面白く、感動した覚えがあります。

それはある種の優越感のようなものだったのかもしれません。

「そこ、ポータルなんだけど、みんな気づいてないんだよな~」とか

「そもそもそこに変な彫刻があるのも知らないだろうな~」とか

「こんなところにお寺が!Ingressやってなかったら気づかなかっただろうな」とか。

新宿はゲーム内では激戦地で、いつもドンパチやっている場所なのですが、それをしっているのはプレイヤーだけ。

ほかの人たちには見えていない。

これが仮想現実というやつか!と。

そういった発見がありまして、ものすごく楽しかったんですよ。

しかし、Ingressがいかに世界中で愛されているといっても、それを共有できる人が限られていて、ちょっとだけ物足りなあと感じていました。

 

ここでPokémonGOの登場ですよ。

いまやみんながポケモンを探して街を練り歩く。

ポケストップが乱立しているところに赴いて、捕獲する。

現実ではない現実を、みんなで共有しているんです。

Ingressで体験した僕の感動をみんなで体験してるんです。

じわっとくるものがありませんか?

これをきっかけに近くの公園に久しぶりに訪れた人。

家の近所に歴史的建造物があることを知ったこと。

いつもの街にモニュメントが多く存在していることに気づいた人。

そういった体験が、日本中で起こっているんです。

久しぶりに子どもと一緒に歩いて、ゲームをして、疲れたねって会話した人や、もしかしたら恋人と出会った人もいるかもしれない。

仮想現実と現実がまじりあって、自分が住んでいる現実が、よりおもしろいものになっていく。

きっとIngressをつくった人たちもそんな体験を作ってきたのだと思います。

そういったことを考えているとぼくは、どうしても体の震えを抑えられないのです。

ああ、よかったなあ。

ものすごく平和だなあ、って思えるのです。

ポケモンもいいけど、ポケストップやジムにも気を配ってみてほしいなあ。

ポケストップになっているのは現実にあるもので、その多くは魅力的な場所です。

きっとあなたが知らなかった世界を見つけられるはずですよ。

 

以上、本当に日記でした。

みんな!いっぱい楽しもうな!