すかしたフィルター

頭の中ってごちゃごちゃしてるよね。

文学部の人ってなにやってるの?という話

 

お疲れ様です。モロヅミです。

大学時代は文学部日本文学科に属していました。自己紹介になると、だいたい「文学部ってなにやってるの?」と聞かれます。そのたびに「うーん、本読んでるよ、本」とか「源氏物語読んでるよー」などと適当にお茶を濁してきたのですが、本当は何をやっているかということを知ってもらいたいなーと思ったので書き始めます。文学部志望の学生さんもきっとためになるはず。

 

冒頭の問いですが、個人的にはこう答えるようにしています。

「文学作品の面白さを追求してます(ました)」と。

じゃあ面白さって何よ、と言われるとうーん・・・と考え込んでしまうのですが、

文学における面白さのひとつとして、解釈の多様性ではないか、と思っています。

いま日本でもっとも研究されている作家は「夏目漱石」で、一番有名な「こころ」では100を超える論文が書かれています。100を超える読み方がある、ということです。作品は1つなのに読み方は100通り以上ある。なんとなく楽しくなってきませんか。私だけですか、そうですか。

もちろんその解釈は対立することもあります。というか対立しない論文などあり得ません。なぜなら、理系と同じく、文系の学問でも常に新しいものを発見していかねばならないからです。前の人が見つけたものは思考の材料にはできるけど、同調するのでは新しいものは生まれませんからね。

文学学者は常に新しい読み方を考えて、発表しているといえます。

 

と、こういうことを人に話すと、

「でもそれって作者がそう思って書いたかどうかはわからないじゃん」

と言われることがあります。確かに。どんな作品にも作者はいて、なにか伝えたいことがあるから作品は生まれるわけですが、では逆に、

「作者がそう思って書いたということはそれほど重要なのか?」といじけたくなります。

作者の意図というものがあったとして、そしてそれを100%作品に投影できる力量と言語があったとしても、作品の解釈というものは意味のあるものだと思っています。

なぜなら、作品は作者のものではなく読者のものだからです。工業製品なんかと一緒で、消費者が自由に使い方を決めていいのです。いくら作者が「この作品は~」と言ったところで、読者にとっては関係のないものです。読者がどう読むか、が作品を決めます。(まあといっても作者がどこまで意図を意識できているかは非常にアヤシイですが)

 

いい作品とは、読者に何かを残し、何かを言わせようとするものだと思っています。だからこそたくさんの解釈が生まれ、たくさんの論文が生まれていくわけです。

端的に言ってしまえば、「この作品、こういう読み方もできるよね?」という切り口を発見することです。そして、切り口がたくさん生まれると、その作品に深みが生まれます。

「ははあ、この登場人物はこんなことを考えていたんだな」

「ここの描写は物語が進んでいくにつれ、変わっていっているな」

といった解釈が重なっていくと、自分だけでは到底たどりつけなかった読み方ができるはずです。そういった蓄積が文学であると思っています。

そして、その蓄積を読むため、そもそも文学を読むために必要な知識や技術を学んでいたのでした。

 

もし「文学部ってなにやってるの?」って聞かれたらこのわかったようなわからないようなエントリをぜひ参考にしてください。