『マチネの終わりに』 感想:過去に向かって生きるということ
どうも、モロヅミです。
少し前に平井啓一郎さんの『マチネの終わりに』を読みました。
kindle unlimited で読み放題対象になっていたので手に取ったのですが、とても面白かったので感想を書きます。
・・・とはいうもののこないだうっかりkindle読み放題対象から外してしまったので内容を確認する術がないのですが。
(kindle unlimitedは10冊まで読み放題登録ができて、新しいものを読むためには現在登録中の本を削除しないといけないんですよね)
で、その本の中に、「過去は変えられるかどうか」なんて話がでてくるんですね。
主人公とヒロインは「変えられる」というんです。それは、過去に起こった事実を変えることができるという意味ではないんです。
つらい過去があっても、そのつらいことがあったおかげで、自分は前に進むことができた、と考えれば、過去の事実はつらいことではなく、よかったことになりますよね。
確かにそういうことってあるなあ、と思ったんです。
あんまりいい例えじゃないかもしれませんけど、中学校のとき、すきだった女の子に告白しようと一緒に帰りまして、結局告白できなかったんですね。
そしたら次の日先輩に呼び出されて「俺の女に手を出すな」なんてことを言われまして、当時その子が先輩と付き合ってることなんて知らなかったんですね。
そのときはなかなかどうして苦い思い出ではありましたが、今となってはなかなか飲み会で笑っていただけるネタとなってますし。
じゃあそれがどうよかったかといわれると未だに苦いままなんですけど。
つまり、どんな過去もそっくり同じ思い出のまま残しておくことはできないんですよね。
そんなことを意識させられました。
村山由佳の「天使の梯子」という作品にこんなエピソードがあります。
あるとき、主人公のフルチンは愛する祖母を亡くしてしまう。一緒に住んでいた家は祖母を思い出させるから、その場所で暮らしていたくない。
主人公の恋人は彼が祖母と一緒に暮らしていた家の様々な場所で彼とキスをするんです。
「これがこの家での一番新しい記憶よ。つらくなったら思い出して」
思い出は、上書きすることはできないけど、増やすことはできるんですよね。
過去を変えられるわけではないけど、自分の在り方は変えられる。
そう考えていくと、僕らは決して未来に向かって生きているわけでもないのかもしれないですよね。
物事が起こるのは未来だけれど、それを作っているのは過去なわけだし。
当たり前ですけど。
過去に向かって生きる、というと後悔して前に進んでいないようにも思えるけれどもそうではない側面もあるんじゃないかな、と思っています。
最近僕は、過去の自分を救わなきゃいけないような気がしてます。
人生の岐路に立たされた時、自分は正しい行いだけをしてきただろうか?
決してそんなことはなくて、あの時ああすればよかった、あのときあれをしなければ、なんて後悔はしょっちゅうあります。
なかでも自分が努力してこなかったことや、自分が道を誤ったことについては今の自分しか救えないんじゃないか、なんて。
つまり、過去の失敗の埋め合わせをしてあげることで、失敗や、過ちをきちんと消化できるんじゃないかな、と。
こないだ、自分の職場から転職した人が言ってました。
「自分は高校、大学と、全然努力をしてこなかったし、自分の人生についてなにも考えてこなかった。だからそれなりに苦しんできたし、大変だった。苦しんでいるままだと、昔の自分のせいになってしまう。そういう意味では過去の自分に手を差し伸べているような気分なんです」
過去の自分を救うことは、過去の自分の行動にきちんと意味を見つけてあげること、そして、決着をつけてあげることなのかな、なんて思っています。
『マチネの終わりに』の感想としてこれでよかったのかな感はなくはないですけど、これに関してはおもしろかったので皆さんにお勧めしておきます。