すかしたフィルター

頭の中ってごちゃごちゃしてるよね。

「君の名は。」の完成についての新海監督のコメントをいまさら読んだらなんかよかった

こんにちは。モロヅミです。

日記です。

新海監督が自分が携わった作品や制作過程などについて書いているホームページがあるのをご存知ですか?

Other voices-遠い声-

自分が新海監督のおっかけを始めたころ、2008年くらいにはあるはずなので結構長いことやってるサイトですね。

昔携わっていたエロゲーのOPについての紹介もあったりします。

そのころからいわゆる”新海節”が見て取れると思います。

今ではTwitterのほうが更新が盛んなので、あまり覗いてはいないんですが、それでも数か月に一遍くらいはなんとなく訪れてしまいます。

やっぱりいい画を書くなあとしみじみしてしまうんですね。

ふと、「君の名は。」公開直前はどんなコメントを残していたんだろうと気になってみてみたんですね。

それがこちらです。

Other voices-遠い声- » 劇場長編アニメーション『君の名は。』

ここで新海監督はこんなことを書いています。

追記。最後に、この個人サイトを見てくださるような、昔からの(ディープな)ファンの方々へ。『君の名は。』には、僕の過去作のモチーフもたっぷりと盛りこまれています。もちろん新しい要素も多くありますが、過去作を熱心に観てくださっていた方ほど、連続性や語り直し、アップデートに気づいていただけるはずです。子供から大人まで多くの観客に楽しんでいただける映画を目指していますが、この映画を最も楽しむことができるのは、やはり皆さんです。今作でもぜひ、映画館に足を運んでいただけると嬉しいです。

追記がいつ書かれたのか定かではありませんが、これが書かれたのは2015年12月11日。

公開のだいたい8か月前ですね。

 

作品というのはもちろん、その作品のみをみて評価を決めるという見方もありますが、私は、作家自身のテーマを考えながら読んだり見たりするのがすきです。

 

といってもそんなに高尚なものではなくて、「この人いっつも同じようなキャラクターが出てくるなあ」とか「この人の作品はいっつも同じ人間関係だなあ」とか考えながら読むのが好きというだけですが。

新海誠は相当意識して自分が持つテーマや連続性を表現している作家です。

作家が自分のことを本当にわかってくれるのは、ここに足を運んでくれるほどのコアなファンである、と宣言するなんて、なんとファン冥利に尽きる言葉でしょうか。

そしてまたこの発言にはある種予防線じみた雰囲気も感じ取れるんですよね・・・。

というのは、「君の名は。」公開直後、昔からの新海ファンにとってはなかなかいい評価をしない人もいたんですね。

いままで、どちらかといえば悲観的なストーリーや切ない感情を描いてきたのに対して今回の作品はどちらかといえば明るく、救いのある物語になっているので、そこに対して反発する人もいました。

まあ、正直なところ、うなずける部分もあります。

今までと変わった部分もありますし、そうでない部分もある。

なんというか今から振り返って新海監督の発言を見てみるとなかなか感慨深いものがあるなあと。

 

前に書いた「君の名は。」の話はこちらです。

 

morojun.hatenablog.com

 

3年目で転職したんだけど自己分析ってこうやれば良かったのかなって記録

 

お疲れ様です。モロヅミです。

とりあえずの3年目で転職を決めました。

その中で自分が感じたことを書いていきたいと思います。

・これから就活をしようとしている人

・これから転職をしようとしている人

に参考になるように書いていこうと思うけれど、あんまり参考にはならないかもしれない。

 

転職や就職において、私が一番重要だと感じたのはやはり自己分析だった。

みなさんも1度は「自己分析重要だよ!」という先輩に出会ったことがあるんじゃないかと思う。

けど、この「自己分析」って、なんというかある意味で「やりがい搾取」に似た雰囲気を感じる時がある。(やりがいポルノというべきかもしれない)

セミナーや説明会などだと「自分にあった仕事を見つけよう!」のようなきらきらしたものを語られることが多いように思える。

それも間違いではないのだけれど、もっと俗っぽい考えをしてもいいんじゃないかな、と思ってしまいます。

例えば、欲望という観点であるとか。

 

欲望の自己分析

転職活動のとき、ある会社でこんな質問をされました。

「人が会社を選ぶ理由として、大きく4つの要素があると言われています。

・一緒に働く人

・仕事の内容(やりたいこと)

・収入

・ブランド

あなたはどの要素が1番優先度が高いですか?」

全く答えを用意していなかったのですけれども、

この質問をされた時、ものすごく考えが整理されたのです。

私は、「やりたいこともないし、一緒に働く人もある程度普通であればいいかな。

まあ、お金はもらえた方がいいよな」なんて思ってたくらいで。

なにしろ、「やりたいことを探せ!」みたいな事をさんざん言われたわけで。

会社を探す理由として基準が見えてなかったんですよね。

この質問をされてから、どれが1番なんだろう?とよく考えるようになりました。

もちろん、要素はこれだけではありません。

どこで働くか、プライベートの時間はどれくらいとれるのかなど(仕事の内容に含まれるかも知れませんが)たくさんあります。

ただ、この4つの要素は良くまとまっていると思いました。

なにより良かったのは「 収入で選んでいいんだ」と思えたことです。

私はお金を稼ごうとする自分を肯定できていなかったのだと思います。

なんというか、イマドキの若者な考えなのかもしれないけれど、「仕事を一番に考えるのはちょっと違うんじゃないか」とか「最低限生きていられれば御の字だよな」とか考えていました。

そんな自分だったので、あんまりお金はいいかなあと思っていたのです。

ただ、実際に就職して、暮らしてみるとやっぱりお金って重要なんですよね。

転職を考えた理由も給与だったりしましたし。

欲望ってあとからじゃないとわからなかったり、実際にその職についてみないとわからなかったりしますよね。

 

 

だからもっと「欲望」を頼りに考えていけばよかったなって思っています。

それがなんだかわからない、という人もいるとは思うんですけれど、まずは上で挙げた4つの項目で考えてみたらいいんじゃないかな、と思う。

「こんなことがしたい!」ということが決まっている人はそれに向かって突き進めばいいし、そうじゃない人は自分の欲望に目を向けて考えてみたらいいと思う。

 

欲望に忠実であるということもきっと難しいことなんだろうけれども。

すきなこととかよりも、欲望と向き合うことのほうが自分を知れるのではないかなと思う。

私の友人にこんな話をしたら

「それは就活の時にさんざん考えていて、わたしの欲望を丁寧に棚卸していったら、結局”モテたい”っていう欲望が根本にあったのね。で、どんな人がモテるのかなって考えたら”とにかく仕事ができるひと”だったのね。どうしたら仕事ができるようになるかって考えたら、すぐに上に行かれる場所、刺激的な場所に勤めるのがいいかなって思った。」

というような答えが返ってきました。

人によってぜんぜん欲望は違うし、その答えもまた違ってくるでしょう

友人は今ベンチャー企業でばりばり働いています。

あんまり休みは取れていないようですが・・・。彼はイキイキしています。

 

好きなこと、じゃなくても自分の欲望のきれっぱしでも見つけられたらすこしずつなにかが見えてくるんじゃないでしょうか。

転職の記録とかもっと事務的な、どういう流れだったかという話はそのうち。

 

 

お金についていま自分が考えていること。

お金についてすこし考えてみます。

いま、僕はとてもお金がほしいです。

それは、やはりないと不安だからです。

あれば、あっただけ自由になれるからです。

だからいま、お金がほしいと考えています。

そう思うことが悪いとか、後ろめたいとか、

そういう風に思っているわけではないのですが、

なんとなくきまりが悪かったり、居心地が悪かったりしています。

それは「お金じゃないよ」という価値観で生きている人がいるからです。

そういう価値観で生きている人はなんとなくうらやましいです。

なぜなら、その人たちはお金について悩んでいないように思えるからです。

なんとなく高尚な人間に思えるからです。

高尚な、というのがよくわからない部分なのだけど、なんとなくそういう気持ちもわかってもらえると思います。

私が恐れているのは、この「お金がほしい」という価値観がなんとなく間違っているような、なんとなく声に出しづらいような、そんな空気があるような気がするのです。

それは、ただ単に「日本人は商売っ気がない」「日本人はお金を稼ぐのが嫌いだ」などという、日本人としての気質ではなくて、

いまの日本人、ひいてはゆとり世代といわれるような飽食の世代が持つ感覚と自分が乖離しているのではないか、という恐れです。

ゆとり世代、さとり世代は、飽食の時代を生き、お金についてあまり頓着しないというか、お金よりも余暇や友人とのつながりを大事にするといいます。

その尺度から自分は遠ざかっているのではないか。

もちろん、人の顔色を見ることでしか、自分の位置を認めることができないのか、という批判はあると思います。

みんなと一緒じゃないのが怖いというわけではないんだけど、

「えっ、みんなお金ほしくないの?ほんとに?大丈夫?」みたいに思っています。

NPOに勤めたり、地方で最低限の暮らしをしたり、それこそ最強のニートになったりする人が出てきたり、お金に対する価値観を考え直そうとしてる人が増えているみたいです。

でも、自分はそうはなれないです。いまのところ。

まだ、お金に使われているように思える。

お金という価値観、資本主義がどこまで人を幸せにするのか、という問題がここにはあって、

お金があるだけ与えられて、なんでも手に入れられる生活って幸せなのだろうか、という問題。

いま、この問題に立ち向かってる人って多いと思う。

いっぱい作って、いっぱい捨てる、という価値観ではなんとなくうまく立ち行かなくなってきた。

というよりも、豊かにはなったけど、おもったよりいいものでもなかったということかもしれない。

ほしいものを手に入れた先に、なにがほしかったのかわからなくなるといったような。

カタログ的なものの価値観、つまり、いろんなものがカタログに入っていてそこから「どこそこのアレ」を選び続けていく。カタログはどんどん厚くなるし、こちらはカタログに載っているものがぜんぶほしくなる。

カタログにチェックリストをつけていくような。

チェックリストを放棄するような生き方を目指している人が多いのだと思う。

そういった問題をひらりとかわして(実際はひらりではないのかもしれないけど)いる人をみると、自分がすこしまだまだなんじゃないか、と思ってしまう。

自分はまだ欲を扱いきれていいないから。

そういう人たちはうらやましく見えてしまう。

 

お金に対するわたしの目標は大事なことは「お金」なのか「お金じゃない」のか見分けられるようになることである。

お金で幸せは買える、買えないものだってあるけれど、買えるものは買える。

聞くところによると、ある一定の水準で得られる幸せは変わらなくなるそうだ。

1000円のワインと100万円のワインでは相当な差があるに違いない。

しかし100万円のワインと1000万円のワインではあまり差は感じられないのだという。

食べ物としてのおいしさというのはあるところで限界が来てしまう。

人間として知覚できるおいしさは金額とは比例しないということらしい。

99点のものを100点にするためには10点を50点にするよりも莫大なコストがかかるということも言えそうだ。

その基準に到達した人には「お金じゃない」といえるのかもしれない。

それは、わからない。

お金って、難しくてよくわからない。

人目のつくところではあまり話すこともできないし、あまりいい顔をされない。

だからとりあえず、ある一定の水準を手に入れられるところまで頑張ってみようと思う。

そうしたらすこしずつわかってくるかもしれない。

 

今回のきっかけになったもの。

ほぼ日のお金特集。

何回か読み直しているけど、これはとてもおもしろい。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 『お金のことを、あえて。』糸井重里によるイントロダクション。

 

このエントリは、読み返すために書かれたものです。

 

あそびあい 蛇足編

以前書いた感想編の続きです。

 morojun.hatenablog.com

 

個人的に気になったことをまとめます。

がっつりネタバレします。

結末 ハッピーエンドかバッドエンドか問題

初めて読んだときは、「ああ、結局小谷は変わらないんだな・・・」ともやもやして、山下と一緒になる未来が想像できなかったんですけど、何回か読んでたらちょっとずつ感覚が変わってきました。

小谷、ちょっと変わったじゃん。

小谷は、卒業式の前日、みおと部屋の片づけをします。そのとき、自分のお皿をいったん空っぽにして、”自分がすきなものでいっぱいにしよう”と決めます。

これが、山下のおかげなのか、というのはちょっと微妙なところですけど。

段ボールの底から、山下からの手紙が出てきたとき、小谷は、あの山下のうちで「セックスをしないで抱きあった」ことを思い出します。

そして一度捨てます。

ものを捨てるって、過去の清算ですよね、いったんなかったことにする。

山下のこともいったんなかったことにしちゃうのかと思いきや、そうじゃない。

卒業式のあと、小谷と山下はつれあって帰るわけですが、ここで小谷は自転車に乗りません。

初めて一緒に帰るときには先に自転車で行ってしまったのに、今回は小谷が待っていてくれます。

誰かに見つかってももうよくなった、と考えるのはちょっと早急に思えます。学校の敷地内かどうかはわかりませんし。

探してみたんですが、ふたりの自転車のシーンって一巻の初めのほうで一緒に帰るときくらいですね。

というか山下はなんで自転車じゃないんだろう。河原で別れ話するシーンでは二人とも乗ってるのに・・・あ!自転車の後ろに小谷を乗せたいだけか!

ともあれ、校門出てから、さっさと自転車に乗らないってことは、山下を待っていたってことですよね。

小谷のお皿の上に山下は乗っけられたんでしょうか。

変わる前の小谷でも、変わった後の小谷でも、山下と一緒に帰っていたような気がします。でも前の小谷だったら、また山下と「したい」と言いそう。

山下の「俺にしてほしいことある?」という問いに「卵買いに行くのつきあって」と答えた小谷。

この答えはイエスなのかノーなのか。

第一話で山下としかしてないこと、として「タイムサービス一緒に並んだ」と小谷は答えています。

で、また特売に並ぶように誘われる。

これは山下をお皿に乗せたと思ってもいいんじゃないか・・・?

と、思うけどさ、今まで小谷が付き合ってきた人って、一緒にスーパーに行ってくれるような人たちじゃないんですよね。

浮気してる金髪のろくでなしとか、第二日曜日にしか会えない家に木が生えてるおっちゃんとか、セックスの時が一番しゃべる八百屋のおいちゃんとか。

周りから見つかったら困るような人とか、特売の時間に一緒にいられない人たちばっかりなんですよ。

山下だったら見つかってもクラスメイト、で済むわけですし。

 山下はちょうどよかっただけなのかもしれない。

でも、「したい」って言っちゃったらそれはぜんぜん変わっていない小谷になっちゃう。

かといって「山下とじゃなきゃやだ」って言ってるわけでもないんですよね。

ちょっとキープされてるだけかもしれませんし。

小谷と山下が抱き合ってから卒業式までの間には何も描かれていません。

小谷がいったんお皿をからっぽにすると言ったのは卒業式、引っ越しが決まってからです。

やっぱり想像せずにはいられないんですよね、小谷が他の人としているところを。

勉強を教えてくれる近所の大学生とか、八百屋さんとか、その他もろもろ。

描き方としては小谷は一生懸命勉強した、ということになってるけど、ほかの誰ともしなかったと描き方ではないんです。

行間を読んだらキリがないのはわかってるんですが・・・。

 

小谷って前日から特売に誘おうと考えてたのかな。卒業式の前日にみおに明日は特売だから遊びに行かずにスーパー行くっていってますし。

結局ハッピーエンドかバッドエンドかなんて結論は出ないんですけど、

山下、これから小谷と付き合って行けるのかな。

小谷目線から見たら、すこし変わって、まっとうになったとは言えるのかも知れないですけど、どうも小谷の本質は変わってないような気がするんですよね……

この違和感がどこに端を発するものなのか、ぜんぜん、わかんないんですが。

 

蛇足の蛇足

1巻の表紙について

この表紙、すごいすきなんですよね。
小谷と山下が対照的で。
小谷はおもちゃの山の上で、女王様のように君臨している。
おもちゃの中にはヘリコプターやなんかの普通のおもちゃもあって、
そこには「大人のおもちゃ」も含まれている。
ちょうど小谷のたとえにあった、すきなものはなんでもお皿の上に載せてきた、と同じように。
カバーを外すと、大人のおもちゃがよりわかりやすく描かれています。
(さすがに表紙には載せられなかったんですかね)
大人のおもちゃの内訳をみてみると、小谷の経験豊富さがわかりますけども……

 

性の支配者としての小谷

小谷がなぜ女王として君臨してられるかというと、セックスにかけるコストがめちゃめちゃ低いからです。

そしてかつ、そのコストに見合わない価値を小谷が有しているからです。

高校生という価値を、破格の値段で売り出しているからです。

小谷はそれをわかってるんですね? 

 って考えようとしてたんだけどうまくいかなかったのでとりあえず公開。

 

 

 

 

『マチネの終わりに』  感想:過去に向かって生きるということ

どうも、モロヅミです。

少し前に平井啓一郎さんの『マチネの終わりに』を読みました。

kindle unlimited で読み放題対象になっていたので手に取ったのですが、とても面白かったので感想を書きます。

・・・とはいうもののこないだうっかりkindle読み放題対象から外してしまったので内容を確認する術がないのですが。

kindle unlimitedは10冊まで読み放題登録ができて、新しいものを読むためには現在登録中の本を削除しないといけないんですよね)

で、その本の中に、「過去は変えられるかどうか」なんて話がでてくるんですね。

主人公とヒロインは「変えられる」というんです。それは、過去に起こった事実を変えることができるという意味ではないんです。

つらい過去があっても、そのつらいことがあったおかげで、自分は前に進むことができた、と考えれば、過去の事実はつらいことではなく、よかったことになりますよね。

確かにそういうことってあるなあ、と思ったんです。

あんまりいい例えじゃないかもしれませんけど、中学校のとき、すきだった女の子に告白しようと一緒に帰りまして、結局告白できなかったんですね。

そしたら次の日先輩に呼び出されて「俺の女に手を出すな」なんてことを言われまして、当時その子が先輩と付き合ってることなんて知らなかったんですね。

そのときはなかなかどうして苦い思い出ではありましたが、今となってはなかなか飲み会で笑っていただけるネタとなってますし。

じゃあそれがどうよかったかといわれると未だに苦いままなんですけど。

 

つまり、どんな過去もそっくり同じ思い出のまま残しておくことはできないんですよね。

そんなことを意識させられました。

 

村山由佳の「天使の梯子」という作品にこんなエピソードがあります。

あるとき、主人公のフルチンは愛する祖母を亡くしてしまう。一緒に住んでいた家は祖母を思い出させるから、その場所で暮らしていたくない。

主人公の恋人は彼が祖母と一緒に暮らしていた家の様々な場所で彼とキスをするんです。

「これがこの家での一番新しい記憶よ。つらくなったら思い出して」

思い出は、上書きすることはできないけど、増やすことはできるんですよね。

過去を変えられるわけではないけど、自分の在り方は変えられる。

 

そう考えていくと、僕らは決して未来に向かって生きているわけでもないのかもしれないですよね。

物事が起こるのは未来だけれど、それを作っているのは過去なわけだし。

当たり前ですけど。

過去に向かって生きる、というと後悔して前に進んでいないようにも思えるけれどもそうではない側面もあるんじゃないかな、と思っています。

最近僕は、過去の自分を救わなきゃいけないような気がしてます。

人生の岐路に立たされた時、自分は正しい行いだけをしてきただろうか?

決してそんなことはなくて、あの時ああすればよかった、あのときあれをしなければ、なんて後悔はしょっちゅうあります。

なかでも自分が努力してこなかったことや、自分が道を誤ったことについては今の自分しか救えないんじゃないか、なんて。

つまり、過去の失敗の埋め合わせをしてあげることで、失敗や、過ちをきちんと消化できるんじゃないかな、と。

 

こないだ、自分の職場から転職した人が言ってました。

「自分は高校、大学と、全然努力をしてこなかったし、自分の人生についてなにも考えてこなかった。だからそれなりに苦しんできたし、大変だった。苦しんでいるままだと、昔の自分のせいになってしまう。そういう意味では過去の自分に手を差し伸べているような気分なんです」

過去の自分を救うことは、過去の自分の行動にきちんと意味を見つけてあげること、そして、決着をつけてあげることなのかな、なんて思っています。

『マチネの終わりに』の感想としてこれでよかったのかな感はなくはないですけど、これに関してはおもしろかったので皆さんにお勧めしておきます。

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

 

失恋を乗り越える方法 ソフィ カル 「限局性激痛」に学ぶ

どうも、モロヅミです。

 

突然ですが。失恋をしたことがありますか?

ないという方は、とてもうらやましい、いやどうだろう、いっかいくらいはしてみた方がいいかも?

まあともあれ、愛する人を失うってのは大変つらい出来事です。

自分が1度ばらばらになって、自分の欠片を拾い集めて、自分ってなんだろう、自分の何がいけなかったんだろう、なんで愛してくれないんだろう、だなんてつらーい作業に陥りますよね。

 

われわれはどうやってこの哀しみを乗り越えるべきなんでしょう。

どうしたらすっかり忘れて、ひとつの経験として、消化できるようになるんでしょうか。

 

なかなかね、難しいんですよねこれが。

やれ「新しい恋をしろ」だの「仕事に打ち込め」だの‥‥

そんなのができたら苦労しないんですよ。

 

じゃあどうすればいいんだろう、といったところで今回の作品のご紹介です。

 

今年の5月くらいに、原美術館で、ソフィ カルの「限局性激痛」という作品を見ました。

以下は原美術館による作品解説です。

 

 【ソフィ カル 「限局性激痛」とは】

限局性激痛」とは、医学用語で身体部位を襲う限局性(狭い範囲)の鋭い痛みや苦しみを意味します。本作は、カル自身の失恋体験による痛みとその治癒を、写真と文章で作品化したものです。人生最悪の日までの出来事を最愛の人への手紙と写真とで綴った第1部と、その不幸話を他人に語り、代わりに相手の最も辛い経験を聞くことで、自身の心の傷を少しずつ癒していく第2部で構成されています。

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今回、原美術館に展示されたのは、第2部です。

第2部は、自分の失恋話を語っていくテキストと他人のつらい経験をくみ取ったテキストを一つの対となる形で、失恋の傷が癒えていく半年間の間、十数人からの聞き取りの結果があらわされています。(写真の黒地のほうがカルのもの白地のほうが聞き取ったものです)

テキストが書かれているのは、本物の布です。布に文字が刺繍されているのです。

内容は日本語に訳されているので、わたしたちにもそれを読むことができます。

ぜひ自分の目で、と言いたいところですが、この展覧会はすでにしまっています。(もっと早く書けばよかったのですけどね)

ここにはカル自身の、どうしようもないくらいの生々しい感情が表現されています。

「約束をしたのにどうしてこなかったか」

「私と会わずにほかの女と会っていたのは許せない」

「こんな扱いを受けるくらいなら会わなければよかった」

うろ覚えですが、このような恨み言がつらつらと書いてあります。

もう一方の白地のテキストには、失恋話を聞いてもらった相手のつらかった出来事が書いてあります。カルは、自身のつらいことを話した後に、相手のつらいことを聞き取っているのですね。

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展覧会では、部屋一面に彼らの対話が敷き詰められており、彼らの対話の道のりが見て取れます。

そこにはカルの失恋から立ち直る姿が見て取れます。

ここに僕らがカルに学ぶことかもしれません。

カルの対話を見ていると、初めはカルのほうがテキストが多いんですよね。

後半になるにしたがって、カルのテキストが減り、対談相手のテキストの量が増えていくんです。

通して読んでいくと、だんだんとディテールが減っていくのがわかります。

「何月何日、彼はこういった」「私はこうつらかった」といった部分が、ただ単に「フラれた」出会ったり、「つまらない男だった」といった相手を貶めるような言葉も出てきます。

僕らは、完全に忘れることもできませんが、完全に覚えていることもできないんですよね。

僕は覚えていることについてディティールを重ねていくことは、傷から血を流すことなのだと思いました。

愛してくれたことや、つらく当たられたこと、というのは細部こそが重要な部分かもしれません。

カルのテキストを眺めていると、だんたんとその出血の量が減り、かさぶたができ、傷がふさがっていくのを見て取ることができます。

彼女がしたことは、「人に自分の失恋を話す」そして「人のつらい過去を聞く」ということです。さらにそれを記録に残す、ということです。

つらいとき、人に話を聞いてもらいたくなります。

それは、「話す」という行為が「癒し」につながっているからです。

感情の波を事細かに記述し、吐き出していく行為が自らの傷を癒してくれるのです。

そして、なにより重要なのは、それとは反対に「人を癒す」という行為なのかもしれません。

人のつらい記憶を聞き取りながら、彼女は対話者の重荷を少しずつ受け取ります。

他者の痛みを受け取ることが反対に自分の痛みを減らしていくことにつながる。

 

だから私たちも、「誰かに話を聞いてもらう」そして「誰かのつらい気持ちを癒す側に回ってみる」といったことで失恋を克服できる、と考えられます。

ここまで話してきておいて、結論がこれかよ、という感じですが。

まあ結局のところそういう話です。

でも、案外正解に近いような気がしませんか。

少なくとも私は、「新しい恋をしろ」よりは現実的だと思いますし、やるべきこともわかってきそうです。

とはいえ、話を聞いてもらう人との関係をきちんとつくっておかなければなりませんし、「そんな友人いないよ!」という私みたいな人とってはなかなか大変なことかもしれませんが。

 

懺悔というシステムはそういった意味でも赦しを得るための最適なシステムであるし、

もしかしたらこの試みも神との対話を模したものだったかもしれません。

という意味深なことを今思いついたので書いておきます。

特に意味はありません。

それでは。

「きのう何食べた?」 ゲイの風景ってこういうことなのか!

こんにちは モロヅミです。

 

主語が大きくてすみません。

今回はよしながふみさんの男性同性愛同棲料理漫画『きのう何たべた?』の紹介です。

こちらは同棲しているゲイのふたりが暮らしているさまを覗き見る(主に料理部分)という漫画です。

 

大げさではなく、この本を読んでからゲイに対しての見方が変わりました。

というか、ぼくはわりと優等生で、「差別はいけないぞー」と本気で考えながら実際にそういうかたがたに出会うと何ともいえない感情を抱いていました。

体験も足りていなかったし、どういうものかわかってなかったんですね。

その点、この漫画ではものすっごく普通にゲイが出てくるんです。

普通に、といってしまうと語弊があると思うんですが、なんというか、ぼくが今までで読んできたものや見てきたものでは「これが同性愛者だ!!」とか「禁断の愛・・・」といったような修飾がたくさんついていたように思えるんですね。

ある種のパワーや主義を作品に載せないと表現できなかったという意味もあるのかもしれませんが。

この作品には、そういったものは出てきません。ただ普通のおっさん(といってもイケメンふたり)が同棲して料理つくっていちゃいちゃするだけです。

 この漫画は「ゲイ漫画だ!」と声高に叫ぶのではなくて、「まあ、こういうもんだよ」と日常の延長線として描いています。

 

僕がこの作品に変えられてしまったのは、こちらのシーンです。

主人公ふたりがオシャレなカフェに行ったときのことです。

店内の女性客がふたりを指さしてきゃっきゃっしている描写があるんですが、それに対してものすごくイラッとしたんです。

 

びっくりしました。

今まで自分がきゃっきゃっしている側にいた事を気付かされました。

今までは自分はそんなことしない、と思ってたのにも関わらず。

それから、僕は同性愛者に対して好奇の目で見るのを辞めました。今までもしていたつもりはないですが、体験として理解して出来た気がしたからです。

 

そして同時に、物語の力の凄まじさを思い知りました。

以前、こんな話を読んだことがあります(確か内田樹の本のどこかだったような)

アメリカである戦争映画を上映したときのこと、燃料が足りず、このままでは目的地に無事着けないことがわかった。

そこで、船長は仕方なく黒人奴隷を海に捨てた。

海に向かって黒人をぽんぽんと放り込むシーンで、拍手喝采が巻き起こったそうです。

拍手をしている観客には黒人も混じっていたそうです。

物語の中の登場人物に自分を投影し、その時は白人側の気待ちになってるんですね。

 

この話を聞いた時、「そんなことあるんかなー」って思ってたんですけど、バッチリありました。

 自分も、彼らの気持ちに寄り添っていました。

いわゆるストレート、異性愛者はマジョリティであり、なかなかセクシャルマイノリティの気持ちを理解することは難しいです。

でも、物語の力を借りればそんなことも出来てしまう。

 

くるりと視点を変えるだけで、新しい自分に出会うこともあるわけです。

 

そんな難しいことを考えなくても、主人公のシロさんが料理をてきぱきと作っていく様を見ているだけで気持ちよくなれますし、出てくる料理はどれも自分で作れるものなので、料理漫画としても優秀です。

個人的なお気に入りは、「アスパラの卵のエビチリソース炒め」「肉豆腐」「酸辣湯」です。

 

きのう何食べた?』はオススメです。