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『君の名は。』 感想 -新海作品を『距離』で考え直してみる-

こんにちは、モロヅミです。

 

君の名は。』見ました?

めちゃくちゃ面白かったです。

めちゃくちゃ面白かったんですが、つい先日、実の姉から「君の名は。ぜんぜん面白くなかったんだけど。どうして?」という難問を突き付けられました。

さんざん考えたのに、全然反論が思いつかず、「うーん、おもしろいものはおもしろいしなあ・・・」という結局のところぜんぜんなんにもならないところに落ち着いてしまったので、しばらくずっと考えていたんですが、「んー、こうやって考えてみたら面白いかも」と思った糸口を発見したので、書いてみます。

新海作品を『距離』で考え直してみる

新海誠が監督した作品はすべて物語の重要な要素として「距離」が登場します。

今回はその『距離』に焦点をあてて、『君の名は。』を考え直していきたいと思います。

僕は、『ほしのこえ』をある動画サイト(確かyahoo!動画かなにか)で見てからずっと新海誠のファンです。そのころはまだ動画サイト、といったものがあまりなく、公式で配信していたように思います。それはたしか小学生か中学生のころで、まだまだ新海誠は「知る人ぞ知る」アニメ監督でした。

こんなにもきれいに情景を描く人を僕は知りませんでした。

そんなこんなでずっとはまりつづけ、新作が出るたび映画館に足を運び、今回もまた打ちのめされてきたわけです。

というわけで、濃淡はありますが、一通り全部の新海作品を見てきました。

(最近になって『秒速』と『雲の向こう』を見直しましたが、他の作品はうろおぼえのところもあると思います。)

 

まだ、新海作品を見ていない人にとってはもしかしたらネタバレになるところもあるかもしれませんが、できるだけ「ほかの作品も見てみたい!」と思えるようなものを書いていきたいと持っていますのでお付き合いください。

出会うことで物理的な距離がゼロになる

君の名は。』は、ふたりが出会って、名前を聞くシーンで終わります。

二人の物理的な距離がゼロになって大団円です。

この作品は紆余曲折あってふたりの距離がゼロになる、という物語なのです。

思えば新海作品では常に「距離」が重要な要素として登場します。

距離にもいろいろとあって、

①物理的距離

②時空的距離

心理的距離

 などがすぐに浮かびます。

これを『君の名は。』に当てはめていくと、

①糸守の土地と東京

②三年前と現在

③夢の中でのつながり(精神と肉体とのつながり)

 といった要素に分けることができると思います。

滝と三葉は夢の中で体が入れ替わって、互いの人生に干渉していくわけですが、このとき、物理、時空的距離を超越し、互いの肉体を共有しているわけです。

肉体を共有するなかで、ふたりはふたりだけのつながりを作っていくのです。

他の人からみたら、わからないけれど、ふたりには絶対わかる。

この絶対的な心の距離がふたりにとっては何よりも代えがたい重要なものなんですよね。誰にもわかってはもらえないとしても。

この繋がりは、三葉の死とともになくなってしまう。繋がりを求めて、滝は糸守の地を探すことになる。

心のつながりを喪失し、それを埋め合わせるために、物理的な距離を縮め、さらには時空を超越しようとするというストーリーなのだといえます。

時空的距離の超越には絶大なコストがかかるので、三葉の残した口噛み酒と、糸守のご神体を祭る場所、あの世とこの世の混じり合う場所が必要でした。

ふたりが出会った時、すべての距離がきちんとゼロになっているんですよね。心も通じて、触れることもできて。

ただ、三葉のおばあちゃん(一葉おばあちゃん)がいうように、あの世へ行ったら自分の大事なものを置いてこないといけない。

ふたりがお互いの名前を忘れてしまったのは、そのせいじゃないのかな、と思います。

お互いの名前を忘れることで、お互いの記憶もなくなってしまう。

距離を縮め、時空をゆがめることで、心の距離にほかの距離を合わせようとした行いに対して、帳尻合わせが行われているのだと感じました。

糸守を救い、舞台は滝が住む東京に移ります。

お互いの存在を忘れ、同じ時間軸、そして同じ東京という場所に生きるふたり。

ここで、物理的距離も時空的な距離がなくなり、あらためて心の距離を縮めていくことになるのです。

 

このようにふたりの距離が近づいたり離れたりして、この映画はできているのです。

他の作品では

他の新海作品でも、「距離」が重要な要素を担っていて、

 たとえば『ほしのこえ』では地球と宇宙に引き裂かれる恋人を描いています。心の距離は離れていないのに、物理的な距離は圧倒的に離れていてどうしようもない。ふたりをつないでいるのは、メールだけなのに、そのメールも距離が離れるにしたがって届くまでの時間が長くなっていく。

物理的、時空的な距離の要素が含まれているんですね。

 また、『雲の向こう、約束の場所』では、夢の中での心理的なつながりを描いています。個人的にはこの作品がとても似ていると思っています。

『雲の向こう』では、ヒロインが眠り続けていて、夢の中でひとりぼっちでいます。主人公はヒロインが孤独で過ごしていることを同じ夢の中で知り、ヒロインを救う決心をします。

彼女をを救う手段は眠りから覚めない原因とされる場所へ連れていくこと。

夢から覚めた時、あるセリフを言うのですが、そのセリフを聞くと、 世界を超越したための通行料やら、コスト、自分の大事なものを置いて行ってしまう、という意味がわかるような気がするのです。

 

夢を通じてつながりが生まれる→場所、距離という条件を満たす→夢の世界から現実の世界へ飛び越えることができる→超越の代償を払う

という流れが、『君の名は。』とそっくりだとおもいませんか。

 

と、『距離』をテーマに作品を考えていくと、面白いのではないか、という試みでした。

今回は書きませんが『秒速5センチメートル』でも距離というのは重要な要素ですし、『星を追う子ども』では現世と異世界との境界を越え、死後の世界とのやり取りも出てきますし、もっと違う見方もできるかもしれません。

おわりに

今回、『距離』について考えてまとめてみました。距離だけでなく、境目を超越することであるとか、代償として失ってしまったものや、失いつつも残っているものであるとか、そういったものに気をつけて見ていくと、新たな発見がありそうだなあと。

あと、これを書くためにほっとんど監督のインタビューも見てませんし、他の人の感想もぜんぜん見てないので、これからそれをあさりに行きます。

もし、ぼくとおんなじ考え方の人がいたら握手しましょう。

では。