失恋を乗り越える方法 ソフィ カル 「限局性激痛」に学ぶ
どうも、モロヅミです。
突然ですが。失恋をしたことがありますか?
ないという方は、とてもうらやましい、いやどうだろう、いっかいくらいはしてみた方がいいかも?
まあともあれ、愛する人を失うってのは大変つらい出来事です。
自分が1度ばらばらになって、自分の欠片を拾い集めて、自分ってなんだろう、自分の何がいけなかったんだろう、なんで愛してくれないんだろう、だなんてつらーい作業に陥りますよね。
われわれはどうやってこの哀しみを乗り越えるべきなんでしょう。
どうしたらすっかり忘れて、ひとつの経験として、消化できるようになるんでしょうか。
なかなかね、難しいんですよねこれが。
やれ「新しい恋をしろ」だの「仕事に打ち込め」だの‥‥
そんなのができたら苦労しないんですよ。
じゃあどうすればいいんだろう、といったところで今回の作品のご紹介です。
今年の5月くらいに、原美術館で、ソフィ カルの「限局性激痛」という作品を見ました。
以下は原美術館による作品解説です。
【ソフィ カル 「限局性激痛」とは】
限局性激痛」とは、医学用語で身体部位を襲う限局性(狭い範囲)の鋭い痛みや苦しみを意味します。本作は、カル自身の失恋体験による痛みとその治癒を、写真と文章で作品化したものです。人生最悪の日までの出来事を最愛の人への手紙と写真とで綴った第1部と、その不幸話を他人に語り、代わりに相手の最も辛い経験を聞くことで、自身の心の傷を少しずつ癒していく第2部で構成されています。
今回、原美術館に展示されたのは、第2部です。
第2部は、自分の失恋話を語っていくテキストと他人のつらい経験をくみ取ったテキストを一つの対となる形で、失恋の傷が癒えていく半年間の間、十数人からの聞き取りの結果があらわされています。(写真の黒地のほうがカルのもの白地のほうが聞き取ったものです)
テキストが書かれているのは、本物の布です。布に文字が刺繍されているのです。
内容は日本語に訳されているので、わたしたちにもそれを読むことができます。
ぜひ自分の目で、と言いたいところですが、この展覧会はすでにしまっています。(もっと早く書けばよかったのですけどね)
ここにはカル自身の、どうしようもないくらいの生々しい感情が表現されています。
「約束をしたのにどうしてこなかったか」
「私と会わずにほかの女と会っていたのは許せない」
「こんな扱いを受けるくらいなら会わなければよかった」
うろ覚えですが、このような恨み言がつらつらと書いてあります。
もう一方の白地のテキストには、失恋話を聞いてもらった相手のつらかった出来事が書いてあります。カルは、自身のつらいことを話した後に、相手のつらいことを聞き取っているのですね。
展覧会では、部屋一面に彼らの対話が敷き詰められており、彼らの対話の道のりが見て取れます。
そこにはカルの失恋から立ち直る姿が見て取れます。
ここに僕らがカルに学ぶことかもしれません。
カルの対話を見ていると、初めはカルのほうがテキストが多いんですよね。
後半になるにしたがって、カルのテキストが減り、対談相手のテキストの量が増えていくんです。
通して読んでいくと、だんだんとディテールが減っていくのがわかります。
「何月何日、彼はこういった」「私はこうつらかった」といった部分が、ただ単に「フラれた」出会ったり、「つまらない男だった」といった相手を貶めるような言葉も出てきます。
僕らは、完全に忘れることもできませんが、完全に覚えていることもできないんですよね。
僕は覚えていることについてディティールを重ねていくことは、傷から血を流すことなのだと思いました。
愛してくれたことや、つらく当たられたこと、というのは細部こそが重要な部分かもしれません。
カルのテキストを眺めていると、だんたんとその出血の量が減り、かさぶたができ、傷がふさがっていくのを見て取ることができます。
彼女がしたことは、「人に自分の失恋を話す」そして「人のつらい過去を聞く」ということです。さらにそれを記録に残す、ということです。
つらいとき、人に話を聞いてもらいたくなります。
それは、「話す」という行為が「癒し」につながっているからです。
感情の波を事細かに記述し、吐き出していく行為が自らの傷を癒してくれるのです。
そして、なにより重要なのは、それとは反対に「人を癒す」という行為なのかもしれません。
人のつらい記憶を聞き取りながら、彼女は対話者の重荷を少しずつ受け取ります。
他者の痛みを受け取ることが反対に自分の痛みを減らしていくことにつながる。
だから私たちも、「誰かに話を聞いてもらう」そして「誰かのつらい気持ちを癒す側に回ってみる」といったことで失恋を克服できる、と考えられます。
ここまで話してきておいて、結論がこれかよ、という感じですが。
まあ結局のところそういう話です。
でも、案外正解に近いような気がしませんか。
少なくとも私は、「新しい恋をしろ」よりは現実的だと思いますし、やるべきこともわかってきそうです。
とはいえ、話を聞いてもらう人との関係をきちんとつくっておかなければなりませんし、「そんな友人いないよ!」という私みたいな人とってはなかなか大変なことかもしれませんが。
懺悔というシステムはそういった意味でも赦しを得るための最適なシステムであるし、
もしかしたらこの試みも神との対話を模したものだったかもしれません。
という意味深なことを今思いついたので書いておきます。
特に意味はありません。
それでは。