お金についていま自分が考えていること。
お金についてすこし考えてみます。
いま、僕はとてもお金がほしいです。
それは、やはりないと不安だからです。
あれば、あっただけ自由になれるからです。
だからいま、お金がほしいと考えています。
そう思うことが悪いとか、後ろめたいとか、
そういう風に思っているわけではないのですが、
なんとなくきまりが悪かったり、居心地が悪かったりしています。
それは「お金じゃないよ」という価値観で生きている人がいるからです。
そういう価値観で生きている人はなんとなくうらやましいです。
なぜなら、その人たちはお金について悩んでいないように思えるからです。
なんとなく高尚な人間に思えるからです。
高尚な、というのがよくわからない部分なのだけど、なんとなくそういう気持ちもわかってもらえると思います。
私が恐れているのは、この「お金がほしい」という価値観がなんとなく間違っているような、なんとなく声に出しづらいような、そんな空気があるような気がするのです。
それは、ただ単に「日本人は商売っ気がない」「日本人はお金を稼ぐのが嫌いだ」などという、日本人としての気質ではなくて、
いまの日本人、ひいてはゆとり世代といわれるような飽食の世代が持つ感覚と自分が乖離しているのではないか、という恐れです。
ゆとり世代、さとり世代は、飽食の時代を生き、お金についてあまり頓着しないというか、お金よりも余暇や友人とのつながりを大事にするといいます。
その尺度から自分は遠ざかっているのではないか。
もちろん、人の顔色を見ることでしか、自分の位置を認めることができないのか、という批判はあると思います。
みんなと一緒じゃないのが怖いというわけではないんだけど、
「えっ、みんなお金ほしくないの?ほんとに?大丈夫?」みたいに思っています。
NPOに勤めたり、地方で最低限の暮らしをしたり、それこそ最強のニートになったりする人が出てきたり、お金に対する価値観を考え直そうとしてる人が増えているみたいです。
でも、自分はそうはなれないです。いまのところ。
まだ、お金に使われているように思える。
お金という価値観、資本主義がどこまで人を幸せにするのか、という問題がここにはあって、
お金があるだけ与えられて、なんでも手に入れられる生活って幸せなのだろうか、という問題。
いま、この問題に立ち向かってる人って多いと思う。
いっぱい作って、いっぱい捨てる、という価値観ではなんとなくうまく立ち行かなくなってきた。
というよりも、豊かにはなったけど、おもったよりいいものでもなかったということかもしれない。
ほしいものを手に入れた先に、なにがほしかったのかわからなくなるといったような。
カタログ的なものの価値観、つまり、いろんなものがカタログに入っていてそこから「どこそこのアレ」を選び続けていく。カタログはどんどん厚くなるし、こちらはカタログに載っているものがぜんぶほしくなる。
カタログにチェックリストをつけていくような。
チェックリストを放棄するような生き方を目指している人が多いのだと思う。
そういった問題をひらりとかわして(実際はひらりではないのかもしれないけど)いる人をみると、自分がすこしまだまだなんじゃないか、と思ってしまう。
自分はまだ欲を扱いきれていいないから。
そういう人たちはうらやましく見えてしまう。
お金に対するわたしの目標は大事なことは「お金」なのか「お金じゃない」のか見分けられるようになることである。
お金で幸せは買える、買えないものだってあるけれど、買えるものは買える。
聞くところによると、ある一定の水準で得られる幸せは変わらなくなるそうだ。
1000円のワインと100万円のワインでは相当な差があるに違いない。
しかし100万円のワインと1000万円のワインではあまり差は感じられないのだという。
食べ物としてのおいしさというのはあるところで限界が来てしまう。
人間として知覚できるおいしさは金額とは比例しないということらしい。
99点のものを100点にするためには10点を50点にするよりも莫大なコストがかかるということも言えそうだ。
その基準に到達した人には「お金じゃない」といえるのかもしれない。
それは、わからない。
お金って、難しくてよくわからない。
人目のつくところではあまり話すこともできないし、あまりいい顔をされない。
だからとりあえず、ある一定の水準を手に入れられるところまで頑張ってみようと思う。
そうしたらすこしずつわかってくるかもしれない。
今回のきっかけになったもの。
ほぼ日のお金特集。
何回か読み直しているけど、これはとてもおもしろい。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 『お金のことを、あえて。』糸井重里によるイントロダクション。
このエントリは、読み返すために書かれたものです。