アラーキーにセンチメンタルな旅に連れてってもらった
彼のセンチメンタルを追体験しているようだった。
この前の日曜日にアラーキーこと、荒木経惟(のぶよしって読むんですね。完全につねおって読み間違えてました)の写真展に行ってきました。
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2795.html
センチメンタルな旅と称した写真展なのだけれど、彼の写真家人生の集大成ともいえる内容になっている、と聞いた。
写真がものすごく好きなわけでも、アラーキーが好きなわけでもないのですが、なにか引っかかって、いってきました。
すごい写真展だった。
心がひりひりして、焼け付きそうにもなったり、生きるとはどういうことだろう、と考えたりした。
写真を見方というものを、最近まで分かっていなかった。
もちろん今だって胸を張って「わかった!」などといえるわけじゃないのだけれど。
それでもなんとなく、こう見たらいいのか、というものに最近であった。
写真家へのインタビューだったか、写真好きな美術家のインタビューだったかわすれてしまったけれど、写真というのはつまり「その人が思ったことが写真に現れてしまう」のだという。
そのことについてなんとなくわかったようなわからないような気がして過ごしてはいたんだけど、ある日、福島第一原発を視察した記事を読んだ。
原発の周りは、津波がすべてを洗い流してしまったことに加えて、人が立ち入ることができないものだから、草が伸び放題になっている。
その記事の筆者が訪れたのは秋。ちょうどススキが盛んに穂を伸ばしているところだった。
記事は、原発から帰る車の中から撮られた、一面のススキ野原の写真でしめくくられていた。
その写真には、なんともいえない悲哀や自然の美しさや、美しいと思ってしまう葛藤やら何やらが写りこんでいたように思えた。
シャッターを切った人と自分とが重なり合ってすらいたと感じた。
そう、写真にその人が思っていたことが現れてしまったのだ。
思えば、私たちが撮る写真といえば、空が美しかった時だったり、恋人との楽しい瞬間であったり、おいしいものを見た時であったり、と何かを感じた時に取るものがほとんどである。
空であれば、きれいに映るように、と願って撮るし、
恋人であれば、かっこよく、かわいく、素敵に撮りたいし、
おいしいものはよだれが出るようにおいしく撮りたい。
そうやって知らず知らずのうちに感情を写真に乗せてきた。
私が思う「いい写真」というのはその人の感情が漏れ出している写真だと思っている。
もちろん、題材の選び方とかシャッタースピードとか感光とかテクニックはあるのだろうけれど。それはさほどの問題ではなくて。
写真にはその時自分がどう感じていたかが写ってしまう。それは意識しているものももちろんあると思うし、無意識のうちに写りこんでしまうものもあると思う。
自分の鏡になるのが写真で、写真は自分を映し出しているともいえるのかもしれない。
荒木さんは、文句なしの天才だった。
彼の経験したことをまるっきりそのまま追体験しているようだった。
彼が向かい合っていたものがそこに突きつけられていた。
遺影にもなった奥さんのポートレートは、これでもか!というくらい美しく、気高く撮影されていた。
奥さんの入院中、病室へコブシの木を届ける自らの影を写した写真。
そこには、なんとも言えない悲しさと、滑稽さと祈りが現れていた。
「きっと荒木さんは奥さんがもう長くないことを知っていたのだ」と感じた。
それでもなんとか彼女を慰めるために、そして自分自身を慰めるためにせっせと運ぶのだ。
こんなことをしてもどうにもならない、というのもわかっているけれど、せずにはいられない。
見ていて辛くなってしまった。
しばらくその悲しみが糸を引いていて、どうにもならなかった。
今週までだけれど、行って損はしないと思うので興味があればぜひ。
P.S.
食べ物の写真を接写したぬるぬるびかびかの写真群があって、
なんだこれ、セックスかよ
ってなりました。食べることはセックスなのかもと。