すかしたフィルター

頭の中ってごちゃごちゃしてるよね。

世界一周はカッコ悪いのか?

お疲れ様です。モロヅミです。

こないだ「世界一周なんて誰でも出来るようなことを個性と呼ぶのはカッコ悪い」というような趣旨の記事を読みました。

引っかかったので、自分の考えを書いていきたいと思います。

それは本当に自分がしたいことか?

私はこれは欲望の源がどこにあるか、といった問題だと思います。つまり、自分の中から発されたものか、それとも他者から発したものか。

分かりやすいのが、三大欲求と呼ばれる、睡眠欲、食欲、性欲。これらは基本的には自分自身から出てきています。誰に言われなくても眠たくなるし、お腹が減れば何か食べたくなる。気になる人と性交渉をしたい、というのも自然発生的に起こるものだと言えます。きわめて個人的な発生経路です。

運動したい、読書をしたい、映画をみたい、誰かと話がしたいというのは、どこから発生しているのでしょうか。当たり前ですけど、運動をしなくても、読書をしなくても、映画をみなくても、ずっとひとりでも、生きてはいかれます。そんな生活は想像もしたくありませんが。

これらは、個人的な欲求だけど、そうじゃない部分もある。もちろん、過去の体験から自分にとってよかったから、またしたい、というのが基本だと思います。体を動かすと、ストレス発散になるし、気持ちいいからまたやりたい。小説を読んで感動したからまた読みたい。過去にポジティブな経験をしているから、またその体験を得たい、という欲求です。

ただこれが本当に100%自分自身から発せられているか、というと、なんか違うような気がしませんか?「今、走るのが流行っているらしい」「この小説が面白いらしい」「有名人が推薦していた」等、他者の目線や行動が欲望のきっかけになっていることはありませんか?

「人の欲望は他者の欲望である」というのはラカンの言葉ですけど、私はこの言葉がけっこう気に入っていて、「自分の欲望は誰かの欲望を写し取ることでしか自覚できない」と読み下しています。単純な例でいくと、町でアイスを食べている人を見て、「ああ、自分はアイスが食べたかったんだなあ」と気付くこととかですかね。ものすごく陳腐な例ですけど。

 つまり、「自分がしたいこと」というのは自分の中にはあり得ない。他者の振舞いをみて、「自分のしたいこと」に気付くわけです。じゃあそもそも個人的な欲求なんて存在しないんじゃないか?というと、そうでもないような気もするんですよ。

ここんところがなんともややこしいけれど、他者というのはそこここに転がっていて、いろんな他者がいるんですけど、そこから「欲望の対象としての他者」を選びとるのは自分ですからね。

たとえば、私はあんまり野球に興味がありません。だから野球選手をみて、うらやましいとは思いませんし、野球をしたいとは思いません。逆にテレビで旅番組を見ている時なんかは、いいなあ、私も旅したいなあって思いながら見ています。

欲望の出発点が自分よりなのか他者よりなのかというのを考えるとすこし面白いかもしれません。

欲望の純度

考えてみると、自分がしたいことが経験によって支えられている部分って案外少ないような気がします。

自分の欲望が自分に完全に属している時、その欲望は純度が高いといえるような気がします。たとえば「○○さんがしていておもしろそうだったからしたい」というとその欲望は自分に属していると言えるでしょうか?あんまり言えないと思います。批判しているわけではありません。念のため。他人がしてて、自分もしたい、というのはぜんぜん普通のことだと思います。

純度が高いからいい、悪いということでもないですし、そもそもその欲望は叶えたほうがいいものなのかもちょっとわかりませんからね。

「世界一周欲」の純度はそこまで高くないような気がします。というよりも、世界一周って、普通に生活してたらあんまり考え付かないです。テレビや書籍で世界一周をみて、したい、と思う人が圧倒的に多いはずです。そうすると、「自分で見つけた自分の欲望感」はあんまりありません。だから、とってつけたような欲望になってしまうんだろうと思います。

世間では「欲望の純度は高いほうがいい」と思われているように思えます。「○○みたいになりたい」というと、ものすごく軽く見られるように思えます。それは欲望としてだけではなく、分別の問題とか覚悟の問題でもあるでしょうけども、なんとなく、自分の拠り所を他者に預けているような気になるからだと思います。自分のしたいことを他者に決められていいのか、と。

でも実際にはほとんどの人が他者の欲望に乗っかって生きてると思うんですよ。

私もそうですし、たぶん、あなたも。

それは別に悪い事じゃなくて、そうなっていることに自覚的になれるかという問題だと思います。自覚しないほうが幸せかもしれないですけど。

だから、全然、カッコ悪くないです。

個性とフィルターの話

お疲れ様です。モロズミです。

 

 高校生の時に、授業で「構造主義」を学ぶ機会がありました。

 構造主義とは、――私の解釈ですが――

「自分が考えているものはすべて他人からの受け売りであり、オリジナルなものはない」

という考えだと思っています。

つまり今自分が考えていることはすでに誰かが考えたことであって、自分自身が生み出したものは何もない。個性というものは存在しえないのだ、と。

 もちろんほかにも核となる考え方はあるのですが、私のなかでもっとも衝撃的なものはこれでした。

自分が考えてきたものはすべて自分のものではない。確かに、何かを話したり考えたりするなかで、いちいち自分の脳みそだけで考えるというのは非効率的ですし、他人から聞いた話、というのは筋が通っていて、いったん自分の中を通っていますから、使い勝手がいいはずです。

じゃあ、今の自分は誰かの寄せ集めであって、オリジナルなものなんかないのではないか?個性なんて生まれないんじゃないか?と高校生の私は悩みました。

それから何年かずっと頭のなかでくすぶっていたのですが、最近、うーんこうやってみたらなんとなくわかるかもなあ、という考え方ができたので紹介します。

 

 

 突然ですが、みなさんエクセルって使ったことあります?めちゃくちゃ便利な表計算のソフトなんですけど。

そのソフトで新しいブックを作成して、新しいシートに全人類をぶち込みます。ちょうどアカシックレコードをコピー&ペーストするように。

ほんとうに全人類約70億人をそこに位置付けます。

上のラベルには名前、年齢、性別、住んでいる場所、話す言語、好きなこと、特技、家族構成、学校、会社、その他もろもろ、その人にまつわるものがすべて入っています。

そしてオートフィルターをオンにします。

そこから自分にあてはまるカテゴリーを選択していきます。

性別、母国語、出身地、年代、でだいたい10万人以下にはなるんじゃないでしょうか。

そこから特技や学校、できること、はては読んだ本、見た映画、付き合った人なんかもいれてみたら、そこに最後まで残っているのは自分しかいないんじゃないでしょうか。

この残った一人はほかの何十億人とは異なった存在です。

やりましたね、あなたはとっても個性的な人間です。もう全人類にあなたと同じような人はいません。

と、言われても、全く嬉しくありません。

いまや私たちは「もともと特別なオンリーワン」だということを知っていますし、たくさんのフィルターを経由してきたのを知っているからです。

でもオリジナルというものはそこにしか存在していないと考えます。

確かに、平平凡凡なフィルターの重なりかもしれませんが、その重なりは自分だけのものです。

たとえば野球ばっかり経験してきた人間と読書ばっかりしてきた人間では世界のとらえ方が違うはずです。

もっといえば同じ読書のなかでも源氏物語ばっかり読んできた人間と夏目漱石ばっかり読んできた人間でも違いはあるはずです。

確かに私たちは誰かの言葉を借りることでしか何かを語れないかもしれませんが、誰の言葉を借りるかは自分で選択することができます。

それがひとつひとつのフィルターになっているのです。

このフィルターというのはただ放っておいても機能しません。私たちが何かをアウトプットしないことにはそれを実感することができません。

アウトプットというのは本や文章を書くということだけでなく、人とのコミュニケーションなどもアウトプットに含まれます。

同じものをみたときに、AさんとBさんでは思うところが違うはずです。それはAさんとBさんは異なったフィルターを通してものを見ているからです。

つまり何か反映するものがなければそのフィルターは目に見えてきません。

何かを書くとか、何かを見るとか、そういったものがなければ、ぜんぜん機能しないのです。

個性ってものがすこしわかった気になりませんか。

この考え方をするようになってから私は少し楽になりました、特に個性ってものを欲していたわけではないのですが、うーん、裏付けがとれたような気がしたからです。

そして、理想の自分やなりたい自分が持っているフィルターってなんだろうと思うようになりました。

フィルターは自分で付け足すことができますから、自分なりにカスタマイズしてさらに自分だけの自分を作ることができるのです。

なんとなく、いい気分になりませんか。

 

現実だとこんなこといってもなかなか理解されないですけど。

わかったような気分になっていただけたらうれしいです。

 

 

 

 

オデッセイを見たよ、という話

お疲れ様です。モロヅミです。

オデッセイ見ました。普段はたくさん映画を見るわけではありませんし、特に映画の批評がうまいというわけではありませんが、書いておかないと忘れてしまうので、書いていきます。

この映画、面白いです。

いつも映画を観る際は事前に準備しないので、今回もスペースホラーだと思っていました。こう、宇宙に取り残されて一人で絶望のうちに死んでいく・・・というような。

でも、完全に裏切られました。

ワトニー(主人公)、ポジティブすぎ。

火星に取り残されても、生きようとする力がものすごい。

この映画は、ひたすら詰将棋を解いていくような、そんな気持ちよさがあると思っています。

火星に取り残されたワトニーがまずやったことは、残存食糧の把握と、酸素、水、電気があとどれくらいもつのかということ。そしてあとどれくらい待てば助けが来るのか、ということ。

食糧問題を解決するために、植物学者であるワトニーは火星でジャガイモの栽培を始める。土を作り、肥料を作り、水を作る。

その手法を見ていると、きれいな証明を解いているような気分になってきます。

そのほかにも、次に火星の調査船が来る場所までどうやったらたどりつけるのか。

どうやったら地球と連絡がとれるのか。どうすれば地球に帰れるのか。

問題が解決する瞬間は、なんともいえない嬉しさがあります。このうれしさはだれしもが共感できるものじゃないでしょうか。

難しい問題を解くすべがわかった時の感動や、ファインプレーをした時のうれしさ。

地道にやってきたことが報われた瞬間。そういった幸せはものすごく人間っぽい幸せだと思うんです。

そういった幸せが積み重なってこの映画はできているんだなあと思いました。

短いですがこのあたりで。

 

蛇足。

ちなみに私がこの映画を観たのはマット・デイモンが好きだからです。

マット・デイモンはなぜか怪我をしたりつらい思いをするのが似合うと思うのですが。

今回も冒頭で自分の腹にささったアンテナを自分で引き抜いて、腹に残ったアンテナのかけらを取り出すというブラック・ジャック的な芸当をしていました。

たぶん、マット・デイモン好きにとってはご褒美のシーンだと思います。

 

 

 

文学部の人ってなにやってるの?という話

 

お疲れ様です。モロヅミです。

大学時代は文学部日本文学科に属していました。自己紹介になると、だいたい「文学部ってなにやってるの?」と聞かれます。そのたびに「うーん、本読んでるよ、本」とか「源氏物語読んでるよー」などと適当にお茶を濁してきたのですが、本当は何をやっているかということを知ってもらいたいなーと思ったので書き始めます。文学部志望の学生さんもきっとためになるはず。

 

冒頭の問いですが、個人的にはこう答えるようにしています。

「文学作品の面白さを追求してます(ました)」と。

じゃあ面白さって何よ、と言われるとうーん・・・と考え込んでしまうのですが、

文学における面白さのひとつとして、解釈の多様性ではないか、と思っています。

いま日本でもっとも研究されている作家は「夏目漱石」で、一番有名な「こころ」では100を超える論文が書かれています。100を超える読み方がある、ということです。作品は1つなのに読み方は100通り以上ある。なんとなく楽しくなってきませんか。私だけですか、そうですか。

もちろんその解釈は対立することもあります。というか対立しない論文などあり得ません。なぜなら、理系と同じく、文系の学問でも常に新しいものを発見していかねばならないからです。前の人が見つけたものは思考の材料にはできるけど、同調するのでは新しいものは生まれませんからね。

文学学者は常に新しい読み方を考えて、発表しているといえます。

 

と、こういうことを人に話すと、

「でもそれって作者がそう思って書いたかどうかはわからないじゃん」

と言われることがあります。確かに。どんな作品にも作者はいて、なにか伝えたいことがあるから作品は生まれるわけですが、では逆に、

「作者がそう思って書いたということはそれほど重要なのか?」といじけたくなります。

作者の意図というものがあったとして、そしてそれを100%作品に投影できる力量と言語があったとしても、作品の解釈というものは意味のあるものだと思っています。

なぜなら、作品は作者のものではなく読者のものだからです。工業製品なんかと一緒で、消費者が自由に使い方を決めていいのです。いくら作者が「この作品は~」と言ったところで、読者にとっては関係のないものです。読者がどう読むか、が作品を決めます。(まあといっても作者がどこまで意図を意識できているかは非常にアヤシイですが)

 

いい作品とは、読者に何かを残し、何かを言わせようとするものだと思っています。だからこそたくさんの解釈が生まれ、たくさんの論文が生まれていくわけです。

端的に言ってしまえば、「この作品、こういう読み方もできるよね?」という切り口を発見することです。そして、切り口がたくさん生まれると、その作品に深みが生まれます。

「ははあ、この登場人物はこんなことを考えていたんだな」

「ここの描写は物語が進んでいくにつれ、変わっていっているな」

といった解釈が重なっていくと、自分だけでは到底たどりつけなかった読み方ができるはずです。そういった蓄積が文学であると思っています。

そして、その蓄積を読むため、そもそも文学を読むために必要な知識や技術を学んでいたのでした。

 

もし「文学部ってなにやってるの?」って聞かれたらこのわかったようなわからないようなエントリをぜひ参考にしてください。