函館ハリストス正教会の謎
どうも、モロヅミです。
こないだ、といっても3月のことなんですけど、函館に行きまして、その時の写真やらなんやらを整理していたら思い出したことがあるので書きます。
あんまり中身はないです。
なんで日本の函館にある教会にダヴィンチの最後の晩餐があるの?
写真は、日経新聞から拝借したものです。(教会内は撮影禁止だったので)
ちょうど写真中央、十字架の上に最後の晩餐が描かれています。
最後の晩餐は、いわずと知れたキリスト処刑前夜、裏切り者の存在を告白する場面です。
この教会に描かれている最後の晩餐はレオナルド・ダ・ヴィンチの複製です。
画像では小さくてなかなか見づらいですけれども、同じ構成のものです。
最後の晩餐はキリスト教においてよく書かれているモチーフのうちの一つ、もっとも有名なものがダヴィンチが描いたものです。
ダヴィンチがこの絵を描いたのが1495年~1498年と言われています。
この数字がどこまで正しいのか私にはわかりませんが(情報源、wikiだし)1500年前後のものだということは間違いなさそうです。
公式サイトによると、
”函館ハリストス正教会は、1858年(安政5年)、日本で最初のロシア領事館が箱館に置かれたことに端を発する。1859年(安政6年)、初代ロシア領事、ゴシュケヴィツチは、現在の教会所在地にロシア領事館の敷地を確保。その附属聖堂として1860年(安政7年)、日本で最初の正教会の聖堂「主の復活聖堂」が建てられた。
1907年(明治40年)の函館大火で焼失した初代聖堂に代わって、1916年(大正5年)、現在の聖堂が建てられた。1983年(昭和58年)、聖堂が国の重要文化財に指定される。”
とあり、再建した年は1907年。そのとき聖堂内にある絵画がどうなったかについては記述かありませんが、おそらくその時に絵画も再度作られたものでしょう。
ということは、すくなくとも大正5年にはダヴィンチの最後の晩餐が函館に輸入されていたってことですよね。
1858年当時のものを再現したとすると、それよりもさらに50年ほど前には日本にダヴィンチの複製画がきていたということになる。
有名な絵画というのは複製されたり、同様の構成をとったりして、伝播していきますが、1500年に描かれた最後の晩餐が函館まで来ているということです。
日本は17世紀初頭から鎖国政策を行っており、西洋絵画はほとんど流通していないはずです。(流通していたとしたら江戸期の絵画、浮世絵等はもっと違ったものになってるはず)
といってもハリストス教会はロシア領事館とのつながりが深いのでロシアから伝播してきた可能性は捨てきれません。
ただ、大正期、どこまで西洋化、西洋絵画が伝わってきたのでしょうね・・・・。
このあたりの歴史に詳しい方がいたらこの疑問も一瞬で氷解するのだと思いますが。
ぜんぜんまとまってないけど、だって知識ないんだもん。
でもこういうの考えるの楽しくない?
函館でおすすめのうにのお店を紹介しておこう。
めちゃくちゃ有名で、めちゃくちゃ並ぶけど、本当に本当にうにはおいしい。
函館朝市のなかにあるのでおひるごはんに食べるのがいい感じ。
以上でした。
「あそびあい」 感想編
「あそびあい」がおもしろい!
ざっくりとしたあらすじ
山下にどうしても共感してしまう滑稽なぼくら
変わってほしいと思うのは悪いこと?
あ、あと、講談社のサイトで試し読みもできます。
まだまだ何かが言える気がするので、たぶん蛇足を書くと思います。
追記:蛇足を書きました。
文系だけど社会人1年目で応用情報技術者に受かったので勉強法を書いてく。
お疲れ様です。モロヅミです。
ばりばりの文系の自分がどうやって1年目で応用情報に受かったか、書いていきたいと思います。
前提として
ちょっとだけ、自分の話をします。僕はいま社会人3年目で、とあるIT企業で働いています。僕が応用情報に受かったのは、2年前の秋、2014年のことです。
なんにも知らないまま会社に入り、会社で資格を取りなさいよ、といわれ、「とったら資格手当出るよ」という甘い響きに誘われて資格を目指すこととなりました。
勉強や運動でもなんでも、モチベーションが大事というのはよく聞く話ですが、実際その通りだと思います。
勉強がすきですきでたまらない、という人はなかなかいませんからね。
その点、自分にとってのニンジンは分かりやすいものでした。
それこそ目の色を変えて(もちろん金色に)勉強に励みました。
この記事は、そんなニンジンを手にしたい皆さんの助けになりたい、といった目的で書かれました。
どうしたら「受かる」のか
試験というのもはどういった人が「受かる」んでしょうか。
理系の人?現場でばりばり働いている人?はたまた学生でしょうか?
答えは簡単で、「試験で一定以上の点数を取った人」です。
当たり前ですが、つきつめるとそういうことです。
試験の性格上、一定以上の点数をとれる人の中に「実務経験者」や「理系出身者」が増えてしまうのは仕方ないですが、点さえとることができれば誰でも受かることができます。
受けて受かるかどうかは、過去問を解けば分かります。
情報処理の過去問はかなりよく作られていて、毎年の合格率はほぼ一定です。(平成27年の合格率は21%)
解いたことのない最新一回分の過去問を解いてみればだいたいわかります。もちろんばらつきはありますし、得手不得手の分野もありますから一概にはいえませんが、
「未知の過去問に対して時間内に回答を終え、80%の問題を正答できる」人が、「受かる」人間であると言えます。
この状態になることがこの試験勉強のゴールです。
勉強の方針として
いいから過去問だ!
午前に関しては、過去問がすべてといっても過言ではないです。
過去10回分、午前問題が80×10=800問あります。
このすべての内容を理解して、記憶することができれば、応用情報は受かります。
というのは、応用情報の試験は過去問がそっくり使われたり、類題として出てくる、というパターンが多いからです。実際に解いた感覚として、選択肢も同じ問題が25%くらいは出てたと思いますし、似たような問題が多数出ます。
もっといえば、800問の選択肢の4択について全部説明できるのが理想です。
800問×4択=3200です。3200のキーワードを覚えればいいのです。とはいっても同じ問題がいっぱい出ますし、計算問題もあるので、本当に覚えるのはその半分くらいでしょうか。1600単語について説明できれば受かります。いや、説明はできなくても問題を読んで回答できればいいのです。
物量が多くて大変ですが、これは理想としての話です。ここまで勉強すれば受かる、というラインを知っておきましょう。
これはどんな試験でも言えると思いますが、全体の物量としてどのくらい覚えればいいのかというのを意識しておくと、先が見えて勉強がしやすくなります。
また、どんな資格試験でもそうですが、努力した人が必ず受かるように設定されています。過去問10回分を完璧に暗記している人が落ちるような試験は、問題が悪すぎます。(とはいっても記述式や、実技が求められる試験ではなかなかそうもいかないようですが)
参考書
さて、これから過去問をやっていくのですが、参考書として以下をおすすめします。
平成28年度【春期】応用情報技術者 パーフェクトラーニング過去問題集 (情報処理技術者試験)
- 作者: 加藤昭,高見澤秀幸,矢野龍王
- 出版社/メーカー: 技術評論社
- 発売日: 2015/12/18
- メディア: 大型本
- この商品を含むブログを見る
情報処理教科書 応用情報技術者 テキスト&問題集 2016年版
- 作者: 日高哲郎
- 出版社/メーカー: 翔泳社
- 発売日: 2015/11/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログを見る
平成28年度【春期】応用情報技術者 パーフェクトラーニング過去問題集 (情報処理技術者試験)
こちらのパーフェクトラーニングは午前の解説もありますが、午後の解説が素晴らしいのでおすすめです。というか、午後の解説を載せてる参考書が少ないので、これは買っておいたほうがいいです。
こういった参考書は専門書なので、高いです。また買う人はそれなりに勉強を頑張りたい人なので値下げもあんまりありません。
そこで、前年度や前々年度のバージョンを買うと安く抑えられます。
確か自分はAmazonで2年前の版を500円くらいで買いました。
平成25年度【秋期】 応用情報技術者 パーフェクトラーニング過去問題集 (情報処理技術者試験)
- 作者: 加藤昭,芦屋広太,矢野龍王
- 出版社/メーカー: 技術評論社
- 発売日: 2013/06/21
- メディア: 大型本
- この商品を含むブログ (1件) を見る
現時点で800円でした。ブックオフ等でも年度が古いものは安くなっているので、あまりお金をかけたくない人はこいういうものを狙ってみてもいいです。
ITの世界が日進月歩といっても、基本的な部分は変わりませんので、内容についてはさほど変わりません。
新しい概念が含まれる問題は2、3問くらいです。
教科書も前年度のものでも構いません。教科書の範囲から出題されますので、こちらもそろえておいたほうがいいです。
アウトプット勉強法
肝心の勉強法ですが、とにかく「問題を解く」ことに重きをおいてください。教科書を読むことから始める人がいますが、個人的にはそれよりも問題を解いたほうが早いです。
自分が初めて過去問を解いた時は、正答率25%でした。4択ですから「確率通りだ」と思ったことを覚えています。
はじめはそれでいいので、とにかく間違えた問題を覚えていくのが重要です。
ここで大切なのがやり直しです。
間違えた問題ごと覚えていくようにしていきます。
- 間違えた問題文をノートに書く。
- 正解の語句の解説を書く
- 正しい説明はどれか、という問題なら選択肢を丸写しする。
- 知らない単語が出てきたら教科書で確認する。
という作業を繰り返しやりました。
過去問題集が問題演習で、教科書は専門用語を引くための辞書のような形で使っていました。
はっきり言ってこのやり直しはとっても時間がかかります。
初めのうちは一回の過去問に対して2時間から3時間くらい平気でかかります。この作業がちょっとつらいのですが、だんだん覚えることが減ってくるので、効率が良くなってきます。
やり直しに時間がかかるので、一回分を40問ずつに分けてやったりもしてました。
解く→やり直し(暗記)→解く→やり直し(暗記)という流れです。
だいたい3回目か4回目くらいから問題の言っていることが分かるようになりますのでそうなってきたら少しずつやり直しの時間が減ってきます。
何回分かを解いてやり直しをやって慣れてきたと感じたら、過去に解いたことのある回をもう一度やってみましょう。
一度解いた過去問をもう一度解くと、きっちりやり直しをした後なので問題の解き方が分かってきます。2度目に間違えてしまったところはノートを読み返してもいいですし、もう一度問題ごとノートに書き写してもいいです。
あとはひたすらやり直しをするだけです。
過去10回分くらいをひたすらやっていけばだんだんとできるようになっていきます。
最近の問題からやっていくのが順当ですが、一番新しい2回くらいは後に取っておくと、直前模試のように使えて自分の実力を測ることができます。
計算問題について
計算が苦手な人はここでかなり苦しめられるかもしれません。正直自分はそこまででもなかったから申し訳ないがあんまり力になれない・・・。
とはいえ、それじゃあんまりなので少しだけ。
ほかの午前問題はキーワードを暗記するものだと言いましたが、計算問題はちょっと違います。ベン図だのビットだの素因数分解だのSQLが出てきます。
これらに関しては教科書を先に読んだり、解説を見ながら何回も解いたりして慣れていくほかありません。計算問題はつまづきやすいので、正答率にはこだわらずに5割くらいを目指してほかで挽回するという心持ちでもいいかもしれません。
計算問題が5問しかできなくても他で9割近い正答率をたたき出せば合格できますからね・・・。
また過去問を解くときは計算問題は後回しにしてやり直しをしたり、割合を考えて勉強するとテンションを下げずに勉強ができます。
でも、応用情報を受けるという人はこれからプログラミングの世界に入って行くのですから、計算問題の概念は勉強しておいて損はないです。
それから、計算問題が苦手でも問題を解くのはやめないでください。なぜなら、本当に過去問と同じ問題、同じ選択肢が出るからです。「あっこれ見たことある・・・解き方分からないけど答えは”ウ”だ・・・!」なんてことがざらにあります。
午後問題
ここまでは午前の選択問題の話でした。ここからは午後の話です。
http://www.tac-school.co.jp/kouza_joho/joho_apsyutudaikousei.html
IPA(情報処理を運営してる団体)からの転載です。27年秋から選択問題の選び方が変わったようですね。
午後問題は記述式で、数も範囲もけっこう広いので勉強するのが難しいです。正直自分も午後はあまり手が回りませんでした。
上の表を見てもらえば分かりますが、セキュリティの問題が必須で、後は10題から4題を選択できます。
午後の場合、過去問をいくら解いても同じ問題が出ることはありませんから、午前ほどは過去問にこだわる必要はありません。
しかしある程度は問題に慣れておかないと本番の試験で困ってしまいますから、過去4回分くらいはやっておくといいと思います。当然ですが選択性なので、
午後の問題は事前に決めておくか?
という問題があります。これは人によりけりです。例えば、理系出身でプログラミングや実務の経験がある人はネットワークやアルゴリズムを解くと決めて受ける人もいますし、まんべんなくできるという人は問題を見てから簡単そうなものを決めるということもできます。
僕は全部をさらっと読んでからいけそうなものを解くという方針でやっていました。ただなんとなくネットワークと組み込みシステムは苦手だからやめておこうかなーと漠然と思っていました。
決め打ちしてもいいのですがちょっとリスクがあるのでそのあたりは個々の裁量ですね。文字を読むのが遅い人や決めるのが苦手な人は自分の得意な問題を決めておいて迷わず解きましょう。
時間が余れば、複数解答してそこから選択するということもできます。
ストラテジ系、マネジメント系は経営の話なのでプログラミングの知識もいりませんし、読めば解けるという問題が多数あるのでここから選ぶのがおすすめです。
午前問題のお供
午前問題をどこでも解くことのできる心強いお供がいます。
こちらで公開されている過去問道場です。
こちらはweb上で応用情報の過去問を解くことができます。解説もしっかりまとまってますし、正答率が表示されるのもナイスです。
電車通勤の方は通勤中にひたすらこれをやっておくとかなり効率よく学ぶことができます。
やる気がないときは、正答率60%切ったらやめる、10問だけやってやめる等もできますし、分野別の出題もできます。
移動中は紙とペンがないので計算問題は分野から外してました。
ちょっとネックなのはやり直しに時間をあまり割けないことですが、それはそれと割り切ってやってました。
おわりに
応用情報は勉強すれば必ず受かります。そして、勉強しただけの価値はあると思います。特に自分のような文系出身の人間からすると、理系の人の考え方にできるだけ近くなっていかなければいけないので、その土台として役に立ってくれました。
上に書いた勉強法は自分が実際にやったものです。こうやって勉強するのがたぶん効率がいいと思ったのでこうやってやりました。
この勉強法、初めは特に時間がかかりますが、とにかく解いていくことで教科書を読んでいくよりも早く知識を詰め込むことができます。それがこの勉強法のいいところです。
もちろん自分と同じようにやらなければ受からないというわけではありません。1つの例です。
ただ、どうやって初めればいいのか分からないという人のために、また1年目で資格を取りたいという人に向けて書いていきました。
誰かの助けになれば幸いです。
みなさんの合格を祈っています。
なにか質問がありましたらお気軽にどうぞ。
世界一周はカッコ悪いのか?
お疲れ様です。モロヅミです。
こないだ「世界一周なんて誰でも出来るようなことを個性と呼ぶのはカッコ悪い」というような趣旨の記事を読みました。
引っかかったので、自分の考えを書いていきたいと思います。
それは本当に自分がしたいことか?
私はこれは欲望の源がどこにあるか、といった問題だと思います。つまり、自分の中から発されたものか、それとも他者から発したものか。
分かりやすいのが、三大欲求と呼ばれる、睡眠欲、食欲、性欲。これらは基本的には自分自身から出てきています。誰に言われなくても眠たくなるし、お腹が減れば何か食べたくなる。気になる人と性交渉をしたい、というのも自然発生的に起こるものだと言えます。きわめて個人的な発生経路です。
運動したい、読書をしたい、映画をみたい、誰かと話がしたいというのは、どこから発生しているのでしょうか。当たり前ですけど、運動をしなくても、読書をしなくても、映画をみなくても、ずっとひとりでも、生きてはいかれます。そんな生活は想像もしたくありませんが。
これらは、個人的な欲求だけど、そうじゃない部分もある。もちろん、過去の体験から自分にとってよかったから、またしたい、というのが基本だと思います。体を動かすと、ストレス発散になるし、気持ちいいからまたやりたい。小説を読んで感動したからまた読みたい。過去にポジティブな経験をしているから、またその体験を得たい、という欲求です。
ただこれが本当に100%自分自身から発せられているか、というと、なんか違うような気がしませんか?「今、走るのが流行っているらしい」「この小説が面白いらしい」「有名人が推薦していた」等、他者の目線や行動が欲望のきっかけになっていることはありませんか?
「人の欲望は他者の欲望である」というのはラカンの言葉ですけど、私はこの言葉がけっこう気に入っていて、「自分の欲望は誰かの欲望を写し取ることでしか自覚できない」と読み下しています。単純な例でいくと、町でアイスを食べている人を見て、「ああ、自分はアイスが食べたかったんだなあ」と気付くこととかですかね。ものすごく陳腐な例ですけど。
つまり、「自分がしたいこと」というのは自分の中にはあり得ない。他者の振舞いをみて、「自分のしたいこと」に気付くわけです。じゃあそもそも個人的な欲求なんて存在しないんじゃないか?というと、そうでもないような気もするんですよ。
ここんところがなんともややこしいけれど、他者というのはそこここに転がっていて、いろんな他者がいるんですけど、そこから「欲望の対象としての他者」を選びとるのは自分ですからね。
たとえば、私はあんまり野球に興味がありません。だから野球選手をみて、うらやましいとは思いませんし、野球をしたいとは思いません。逆にテレビで旅番組を見ている時なんかは、いいなあ、私も旅したいなあって思いながら見ています。
欲望の出発点が自分よりなのか他者よりなのかというのを考えるとすこし面白いかもしれません。
欲望の純度
考えてみると、自分がしたいことが経験によって支えられている部分って案外少ないような気がします。
自分の欲望が自分に完全に属している時、その欲望は純度が高いといえるような気がします。たとえば「○○さんがしていておもしろそうだったからしたい」というとその欲望は自分に属していると言えるでしょうか?あんまり言えないと思います。批判しているわけではありません。念のため。他人がしてて、自分もしたい、というのはぜんぜん普通のことだと思います。
純度が高いからいい、悪いということでもないですし、そもそもその欲望は叶えたほうがいいものなのかもちょっとわかりませんからね。
「世界一周欲」の純度はそこまで高くないような気がします。というよりも、世界一周って、普通に生活してたらあんまり考え付かないです。テレビや書籍で世界一周をみて、したい、と思う人が圧倒的に多いはずです。そうすると、「自分で見つけた自分の欲望感」はあんまりありません。だから、とってつけたような欲望になってしまうんだろうと思います。
世間では「欲望の純度は高いほうがいい」と思われているように思えます。「○○みたいになりたい」というと、ものすごく軽く見られるように思えます。それは欲望としてだけではなく、分別の問題とか覚悟の問題でもあるでしょうけども、なんとなく、自分の拠り所を他者に預けているような気になるからだと思います。自分のしたいことを他者に決められていいのか、と。
でも実際にはほとんどの人が他者の欲望に乗っかって生きてると思うんですよ。
私もそうですし、たぶん、あなたも。
それは別に悪い事じゃなくて、そうなっていることに自覚的になれるかという問題だと思います。自覚しないほうが幸せかもしれないですけど。
だから、全然、カッコ悪くないです。
個性とフィルターの話
お疲れ様です。モロズミです。
高校生の時に、授業で「構造主義」を学ぶ機会がありました。
構造主義とは、――私の解釈ですが――
「自分が考えているものはすべて他人からの受け売りであり、オリジナルなものはない」
という考えだと思っています。
つまり今自分が考えていることはすでに誰かが考えたことであって、自分自身が生み出したものは何もない。個性というものは存在しえないのだ、と。
もちろんほかにも核となる考え方はあるのですが、私のなかでもっとも衝撃的なものはこれでした。
自分が考えてきたものはすべて自分のものではない。確かに、何かを話したり考えたりするなかで、いちいち自分の脳みそだけで考えるというのは非効率的ですし、他人から聞いた話、というのは筋が通っていて、いったん自分の中を通っていますから、使い勝手がいいはずです。
じゃあ、今の自分は誰かの寄せ集めであって、オリジナルなものなんかないのではないか?個性なんて生まれないんじゃないか?と高校生の私は悩みました。
それから何年かずっと頭のなかでくすぶっていたのですが、最近、うーんこうやってみたらなんとなくわかるかもなあ、という考え方ができたので紹介します。
突然ですが、みなさんエクセルって使ったことあります?めちゃくちゃ便利な表計算のソフトなんですけど。
そのソフトで新しいブックを作成して、新しいシートに全人類をぶち込みます。ちょうどアカシックレコードをコピー&ペーストするように。
ほんとうに全人類約70億人をそこに位置付けます。
上のラベルには名前、年齢、性別、住んでいる場所、話す言語、好きなこと、特技、家族構成、学校、会社、その他もろもろ、その人にまつわるものがすべて入っています。
そしてオートフィルターをオンにします。
そこから自分にあてはまるカテゴリーを選択していきます。
性別、母国語、出身地、年代、でだいたい10万人以下にはなるんじゃないでしょうか。
そこから特技や学校、できること、はては読んだ本、見た映画、付き合った人なんかもいれてみたら、そこに最後まで残っているのは自分しかいないんじゃないでしょうか。
この残った一人はほかの何十億人とは異なった存在です。
やりましたね、あなたはとっても個性的な人間です。もう全人類にあなたと同じような人はいません。
と、言われても、全く嬉しくありません。
いまや私たちは「もともと特別なオンリーワン」だということを知っていますし、たくさんのフィルターを経由してきたのを知っているからです。
でもオリジナルというものはそこにしか存在していないと考えます。
確かに、平平凡凡なフィルターの重なりかもしれませんが、その重なりは自分だけのものです。
たとえば野球ばっかり経験してきた人間と読書ばっかりしてきた人間では世界のとらえ方が違うはずです。
もっといえば同じ読書のなかでも源氏物語ばっかり読んできた人間と夏目漱石ばっかり読んできた人間でも違いはあるはずです。
確かに私たちは誰かの言葉を借りることでしか何かを語れないかもしれませんが、誰の言葉を借りるかは自分で選択することができます。
それがひとつひとつのフィルターになっているのです。
このフィルターというのはただ放っておいても機能しません。私たちが何かをアウトプットしないことにはそれを実感することができません。
アウトプットというのは本や文章を書くということだけでなく、人とのコミュニケーションなどもアウトプットに含まれます。
同じものをみたときに、AさんとBさんでは思うところが違うはずです。それはAさんとBさんは異なったフィルターを通してものを見ているからです。
つまり何か反映するものがなければそのフィルターは目に見えてきません。
何かを書くとか、何かを見るとか、そういったものがなければ、ぜんぜん機能しないのです。
個性ってものがすこしわかった気になりませんか。
この考え方をするようになってから私は少し楽になりました、特に個性ってものを欲していたわけではないのですが、うーん、裏付けがとれたような気がしたからです。
そして、理想の自分やなりたい自分が持っているフィルターってなんだろうと思うようになりました。
フィルターは自分で付け足すことができますから、自分なりにカスタマイズしてさらに自分だけの自分を作ることができるのです。
なんとなく、いい気分になりませんか。
現実だとこんなこといってもなかなか理解されないですけど。
わかったような気分になっていただけたらうれしいです。
オデッセイを見たよ、という話
お疲れ様です。モロヅミです。
オデッセイ見ました。普段はたくさん映画を見るわけではありませんし、特に映画の批評がうまいというわけではありませんが、書いておかないと忘れてしまうので、書いていきます。
この映画、面白いです。
いつも映画を観る際は事前に準備しないので、今回もスペースホラーだと思っていました。こう、宇宙に取り残されて一人で絶望のうちに死んでいく・・・というような。
でも、完全に裏切られました。
ワトニー(主人公)、ポジティブすぎ。
火星に取り残されても、生きようとする力がものすごい。
この映画は、ひたすら詰将棋を解いていくような、そんな気持ちよさがあると思っています。
火星に取り残されたワトニーがまずやったことは、残存食糧の把握と、酸素、水、電気があとどれくらいもつのかということ。そしてあとどれくらい待てば助けが来るのか、ということ。
食糧問題を解決するために、植物学者であるワトニーは火星でジャガイモの栽培を始める。土を作り、肥料を作り、水を作る。
その手法を見ていると、きれいな証明を解いているような気分になってきます。
そのほかにも、次に火星の調査船が来る場所までどうやったらたどりつけるのか。
どうやったら地球と連絡がとれるのか。どうすれば地球に帰れるのか。
問題が解決する瞬間は、なんともいえない嬉しさがあります。このうれしさはだれしもが共感できるものじゃないでしょうか。
難しい問題を解くすべがわかった時の感動や、ファインプレーをした時のうれしさ。
地道にやってきたことが報われた瞬間。そういった幸せはものすごく人間っぽい幸せだと思うんです。
そういった幸せが積み重なってこの映画はできているんだなあと思いました。
短いですがこのあたりで。
蛇足。
ちなみに私がこの映画を観たのはマット・デイモンが好きだからです。
マット・デイモンはなぜか怪我をしたりつらい思いをするのが似合うと思うのですが。
今回も冒頭で自分の腹にささったアンテナを自分で引き抜いて、腹に残ったアンテナのかけらを取り出すというブラック・ジャック的な芸当をしていました。
たぶん、マット・デイモン好きにとってはご褒美のシーンだと思います。
文学部の人ってなにやってるの?という話
お疲れ様です。モロヅミです。
大学時代は文学部日本文学科に属していました。自己紹介になると、だいたい「文学部ってなにやってるの?」と聞かれます。そのたびに「うーん、本読んでるよ、本」とか「源氏物語読んでるよー」などと適当にお茶を濁してきたのですが、本当は何をやっているかということを知ってもらいたいなーと思ったので書き始めます。文学部志望の学生さんもきっとためになるはず。
冒頭の問いですが、個人的にはこう答えるようにしています。
「文学作品の面白さを追求してます(ました)」と。
じゃあ面白さって何よ、と言われるとうーん・・・と考え込んでしまうのですが、
文学における面白さのひとつとして、解釈の多様性ではないか、と思っています。
いま日本でもっとも研究されている作家は「夏目漱石」で、一番有名な「こころ」では100を超える論文が書かれています。100を超える読み方がある、ということです。作品は1つなのに読み方は100通り以上ある。なんとなく楽しくなってきませんか。私だけですか、そうですか。
もちろんその解釈は対立することもあります。というか対立しない論文などあり得ません。なぜなら、理系と同じく、文系の学問でも常に新しいものを発見していかねばならないからです。前の人が見つけたものは思考の材料にはできるけど、同調するのでは新しいものは生まれませんからね。
文学学者は常に新しい読み方を考えて、発表しているといえます。
と、こういうことを人に話すと、
「でもそれって作者がそう思って書いたかどうかはわからないじゃん」
と言われることがあります。確かに。どんな作品にも作者はいて、なにか伝えたいことがあるから作品は生まれるわけですが、では逆に、
「作者がそう思って書いたということはそれほど重要なのか?」といじけたくなります。
作者の意図というものがあったとして、そしてそれを100%作品に投影できる力量と言語があったとしても、作品の解釈というものは意味のあるものだと思っています。
なぜなら、作品は作者のものではなく読者のものだからです。工業製品なんかと一緒で、消費者が自由に使い方を決めていいのです。いくら作者が「この作品は~」と言ったところで、読者にとっては関係のないものです。読者がどう読むか、が作品を決めます。(まあといっても作者がどこまで意図を意識できているかは非常にアヤシイですが)
いい作品とは、読者に何かを残し、何かを言わせようとするものだと思っています。だからこそたくさんの解釈が生まれ、たくさんの論文が生まれていくわけです。
端的に言ってしまえば、「この作品、こういう読み方もできるよね?」という切り口を発見することです。そして、切り口がたくさん生まれると、その作品に深みが生まれます。
「ははあ、この登場人物はこんなことを考えていたんだな」
「ここの描写は物語が進んでいくにつれ、変わっていっているな」
といった解釈が重なっていくと、自分だけでは到底たどりつけなかった読み方ができるはずです。そういった蓄積が文学であると思っています。
そして、その蓄積を読むため、そもそも文学を読むために必要な知識や技術を学んでいたのでした。
もし「文学部ってなにやってるの?」って聞かれたらこのわかったようなわからないようなエントリをぜひ参考にしてください。