pingが返ってくるだけでいい
どうも、モロヅミです。
なんにもうまくいかなくて、どうしようもなくて、誰でもいいから相手してほしくて、誰かに電話を掛けたことはありますか?
わたしはあります。
繋がった瞬間のほっとする感じがたまらなくいとおしいからまたやめられなかったりしませんか。メンヘラっぽいですかそうですか。
まあそんな「誰かとつながりたい日」って誰しも一度は経験すると思うんです。
ネットが発達した現代の人間にとって、結構切実な欲望かもしれない。
でも「誰かと繋がりたい日」であって「話を聞いてほしい日」ってわけでもなかったりして。
もちろん、話をきいて一緒に感情を分け合ってほしい日もある。
でもそうじゃなくてただ誰かと繋がってることを確かめたいという巨大な衝動が(たいていそれは絶望や諦めと仲良しだ)襲ってくることもある。
そうして電話のマークに手を伸ばしてしまう。
数コールのうちに相手と繋がる。
「もしもし」
いままで自分を覆っていた喪失感や無能感が取り払われる。
何かを取り戻したような気すらやってくる。
特に話したかったことがあるわけでもないから、なかなかうまく話せない。
というか、つながる目的の電話だから、話すことなんてない。
まるで「ping」みたいだな、と今日唐突に思った。
そうか、pingだけでよかったのか、と。
pingというのは、ネットワーク機器が繋がっているかどうかを調べるためのコマンドである。
ITに携わっている人ならば一度は打ったことがあるはずだ。
pingは宛先の相手まで到達すると相手からの返答を受信する。
その返信には中身などなく、ただ、返信が返ってきたことだけがわかる。
自分もそうだ。
別に話を聞いてほしいわけでも、相手から何かを言ってほしいわけでもない。
ただ繋がっている実感がほしいだけだ。
人間もpingコマンドが打てればいいのに。
返ってくるのは空っぽのパケットで構わないのだから。
とすると、pingの送り先は多いほうがいい。
相手が忙しかったらpingは返ってこないわけだし、それこそ知らないうちに疎遠になっていたりするわけだから。
自分を構成するネットワークは広くていろいろな方向に延びているほうが都合がいい。
脳みそをつないでいくシナプスがごとく、様々に手を伸ばしておけば、pingの成功率はどんどん上がっていくだろうから。
pingコマンドが人間にあったら、それはそれで苦労するんだろうな。
pingを送らずに済む方法を考えたほうがいいんだろう。
それでも送ってしまうのが自分だと思う。
うちのプレミアムフライデーは交代制です
こんにちは。モロヅミです。
うちのプレミアムフライデーは交代制である。
プレミアムフライデーはそもそも月末の金曜日に15時に退勤する、という仕組みなのだけれど、うちはそれを交代制でやっている。
うちの会社はあるサービスを運営しているので、いわゆる定時の時間帯はなにかとトラブルが発生しやすい。
ましてや月末はなんやらかんやらで人手がいることが多い。
そんなとき15時から事務所が無人になってしまうのはリスクが高い。
そういうわけでうちのプレミアムフライデーは交代制になっている。
金曜日には毎週数人ずつはやく帰ることができるのである。
具体的にどうやっているかというと、チームをいくつかのグループに分ける。グループはだいたいの担当や職務によって分ける。その中から一人ずつ選んで休むのである。
例えば、12人のチームであれば
- A(ベテラン)
- B(中堅)
- C(新人)
こんな風に4人ずつに分ける。ABCのうちから一人が第一週目に早引けする。次の週も同じように交代でプレミアムしていくというわけです。
グループで分けているので仕事が回らなくなる心配もないですし。
金曜日の午後ってだらだら仕事してますですしおすし・・・
だいたい4週で1か月になるので月に一回はプレミアムな金曜日を体験することができます。
人数が多いチームの場合はグループ分けを工夫すればいいわけですし、あんまり忙しくない月中はそこだけ多くの人が休めばいいわけです。
公平を期すために、必ずしも一回休めないかもしれませんが、それでも金曜日にちょっとだけ早く上がれるというのはなかなか良い気持ちです。
この制度の良いところは、グループの中でも交代ができるというところです。
従来のプレミアムフライデーは、みんながみんな月末に早上がりできるわけではないので一緒に遊びに行く仲間がいなかったり案外することがなかったりするんですよね。
ひとりでTSUTAYAに行って家で映画見るという人が増えたとか聞きますし。
もちろんそれもいい過ごし方なのですけれど。
でも、2週目の金曜日に飲み会が入ったり、約束が入ったりすることがあるじゃないですか。
職場から行くと、定時でもギリギリとか、もっといえば間に合わないとかあるわけじゃないですか。(19時にどこそことか)
そういう時に交代してもらって、融通を利かせられるのも素晴らしい点です。
グループ分けさえしっかりできれば、特にコストがかかりません。むしろ残業代等が減ってコストの削減につながります。
大きな職場であればまずはチーム単位で実施して少しづつ広げていったりすればいいですし。
デメリットや注意点としては派遣の方やパートタイマーの方の扱いでしょうか。
ほかの会社でプレミアムフライデーの扱いがどのようになっているのか分かりませんが、うちでは有給扱いではなく残業からマイナスされるという形になっています。(要は総労働時間が減る)
この扱いとしてはたぶんいろいろ言うこともあるのですが、派遣やパートタイマー方は時間給ですから、プレミアムフライデーのせいでお金が・・・!とか月の労働時間が・・・!とか、契約が・・・!などなどの問題はあるかもしれません。
といっても月に労働時間が3時間ほど減るだけですし、そこまでインパクトのあるものではないかもしれません。
他はまあ特に注意することもないのかなと思います。
ほかの部署への情報の周知とか、だれがプレミアムフライデーを取得しているのか誰でもわかる環境にすることとか(うちでは朝会で発表してます)
部長や課長などの役職者が進んで早退することとかですかね。
休みやすい空気づくり、だいじ。
余談ですが、プレミアムフライデーを取得した人がどんなプレミアムなことをしたのか、週一の定例会で発表するようになっているのですが、結構みんないろいろなことしてて興味深いです。(ビール飲んだりディズニーいったり家族と食事にいったり)
交代制にしたらみんな幸せになれるしリスクは減るし言うことないと思うんですよね!
以上です。
プレミアムモルツの香るエールは最近台頭してきた地ビール界隈に向けての大きな牽制だと思うんですよね・・・
地ビール?ひねりつぶしてくれるわ!というような。
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「君の名は。」の完成についての新海監督のコメントをいまさら読んだらなんかよかった
こんにちは。モロヅミです。
日記です。
新海監督が自分が携わった作品や制作過程などについて書いているホームページがあるのをご存知ですか?
自分が新海監督のおっかけを始めたころ、2008年くらいにはあるはずなので結構長いことやってるサイトですね。
昔携わっていたエロゲーのOPについての紹介もあったりします。
そのころからいわゆる”新海節”が見て取れると思います。
今ではTwitterのほうが更新が盛んなので、あまり覗いてはいないんですが、それでも数か月に一遍くらいはなんとなく訪れてしまいます。
やっぱりいい画を書くなあとしみじみしてしまうんですね。
ふと、「君の名は。」公開直前はどんなコメントを残していたんだろうと気になってみてみたんですね。
それがこちらです。
Other voices-遠い声- » 劇場長編アニメーション『君の名は。』
ここで新海監督はこんなことを書いています。
追記。最後に、この個人サイトを見てくださるような、昔からの(ディープな)ファンの方々へ。『君の名は。』には、僕の過去作のモチーフもたっぷりと盛りこまれています。もちろん新しい要素も多くありますが、過去作を熱心に観てくださっていた方ほど、連続性や語り直し、アップデートに気づいていただけるはずです。子供から大人まで多くの観客に楽しんでいただける映画を目指していますが、この映画を最も楽しむことができるのは、やはり皆さんです。今作でもぜひ、映画館に足を運んでいただけると嬉しいです。
追記がいつ書かれたのか定かではありませんが、これが書かれたのは2015年12月11日。
公開のだいたい8か月前ですね。
作品というのはもちろん、その作品のみをみて評価を決めるという見方もありますが、私は、作家自身のテーマを考えながら読んだり見たりするのがすきです。
といってもそんなに高尚なものではなくて、「この人いっつも同じようなキャラクターが出てくるなあ」とか「この人の作品はいっつも同じ人間関係だなあ」とか考えながら読むのが好きというだけですが。
新海誠は相当意識して自分が持つテーマや連続性を表現している作家です。
作家が自分のことを本当にわかってくれるのは、ここに足を運んでくれるほどのコアなファンである、と宣言するなんて、なんとファン冥利に尽きる言葉でしょうか。
そしてまたこの発言にはある種予防線じみた雰囲気も感じ取れるんですよね・・・。
というのは、「君の名は。」公開直後、昔からの新海ファンにとってはなかなかいい評価をしない人もいたんですね。
いままで、どちらかといえば悲観的なストーリーや切ない感情を描いてきたのに対して今回の作品はどちらかといえば明るく、救いのある物語になっているので、そこに対して反発する人もいました。
まあ、正直なところ、うなずける部分もあります。
今までと変わった部分もありますし、そうでない部分もある。
なんというか今から振り返って新海監督の発言を見てみるとなかなか感慨深いものがあるなあと。
前に書いた「君の名は。」の話はこちらです。
3年目で転職したんだけど自己分析ってこうやれば良かったのかなって記録
お疲れ様です。モロヅミです。
とりあえずの3年目で転職を決めました。
その中で自分が感じたことを書いていきたいと思います。
・これから就活をしようとしている人
・これから転職をしようとしている人
に参考になるように書いていこうと思うけれど、あんまり参考にはならないかもしれない。
転職や就職において、私が一番重要だと感じたのはやはり自己分析だった。
みなさんも1度は「自己分析重要だよ!」という先輩に出会ったことがあるんじゃないかと思う。
けど、この「自己分析」って、なんというかある意味で「やりがい搾取」に似た雰囲気を感じる時がある。(やりがいポルノというべきかもしれない)
セミナーや説明会などだと「自分にあった仕事を見つけよう!」のようなきらきらしたものを語られることが多いように思える。
それも間違いではないのだけれど、もっと俗っぽい考えをしてもいいんじゃないかな、と思ってしまいます。
例えば、欲望という観点であるとか。
欲望の自己分析
転職活動のとき、ある会社でこんな質問をされました。
「人が会社を選ぶ理由として、大きく4つの要素があると言われています。
・一緒に働く人
・仕事の内容(やりたいこと)
・収入
・ブランド
あなたはどの要素が1番優先度が高いですか?」
全く答えを用意していなかったのですけれども、
この質問をされた時、ものすごく考えが整理されたのです。
私は、「やりたいこともないし、一緒に働く人もある程度普通であればいいかな。
まあ、お金はもらえた方がいいよな」なんて思ってたくらいで。
なにしろ、「やりたいことを探せ!」みたいな事をさんざん言われたわけで。
会社を探す理由として基準が見えてなかったんですよね。
この質問をされてから、どれが1番なんだろう?とよく考えるようになりました。
もちろん、要素はこれだけではありません。
どこで働くか、プライベートの時間はどれくらいとれるのかなど(仕事の内容に含まれるかも知れませんが)たくさんあります。
ただ、この4つの要素は良くまとまっていると思いました。
なにより良かったのは「 収入で選んでいいんだ」と思えたことです。
私はお金を稼ごうとする自分を肯定できていなかったのだと思います。
なんというか、イマドキの若者な考えなのかもしれないけれど、「仕事を一番に考えるのはちょっと違うんじゃないか」とか「最低限生きていられれば御の字だよな」とか考えていました。
そんな自分だったので、あんまりお金はいいかなあと思っていたのです。
ただ、実際に就職して、暮らしてみるとやっぱりお金って重要なんですよね。
転職を考えた理由も給与だったりしましたし。
欲望ってあとからじゃないとわからなかったり、実際にその職についてみないとわからなかったりしますよね。
だからもっと「欲望」を頼りに考えていけばよかったなって思っています。
それがなんだかわからない、という人もいるとは思うんですけれど、まずは上で挙げた4つの項目で考えてみたらいいんじゃないかな、と思う。
「こんなことがしたい!」ということが決まっている人はそれに向かって突き進めばいいし、そうじゃない人は自分の欲望に目を向けて考えてみたらいいと思う。
欲望に忠実であるということもきっと難しいことなんだろうけれども。
すきなこととかよりも、欲望と向き合うことのほうが自分を知れるのではないかなと思う。
私の友人にこんな話をしたら
「それは就活の時にさんざん考えていて、わたしの欲望を丁寧に棚卸していったら、結局”モテたい”っていう欲望が根本にあったのね。で、どんな人がモテるのかなって考えたら”とにかく仕事ができるひと”だったのね。どうしたら仕事ができるようになるかって考えたら、すぐに上に行かれる場所、刺激的な場所に勤めるのがいいかなって思った。」
というような答えが返ってきました。
人によってぜんぜん欲望は違うし、その答えもまた違ってくるでしょう
友人は今ベンチャー企業でばりばり働いています。
あんまり休みは取れていないようですが・・・。彼はイキイキしています。
好きなこと、じゃなくても自分の欲望のきれっぱしでも見つけられたらすこしずつなにかが見えてくるんじゃないでしょうか。
転職の記録とかもっと事務的な、どういう流れだったかという話はそのうち。
お金についていま自分が考えていること。
お金についてすこし考えてみます。
いま、僕はとてもお金がほしいです。
それは、やはりないと不安だからです。
あれば、あっただけ自由になれるからです。
だからいま、お金がほしいと考えています。
そう思うことが悪いとか、後ろめたいとか、
そういう風に思っているわけではないのですが、
なんとなくきまりが悪かったり、居心地が悪かったりしています。
それは「お金じゃないよ」という価値観で生きている人がいるからです。
そういう価値観で生きている人はなんとなくうらやましいです。
なぜなら、その人たちはお金について悩んでいないように思えるからです。
なんとなく高尚な人間に思えるからです。
高尚な、というのがよくわからない部分なのだけど、なんとなくそういう気持ちもわかってもらえると思います。
私が恐れているのは、この「お金がほしい」という価値観がなんとなく間違っているような、なんとなく声に出しづらいような、そんな空気があるような気がするのです。
それは、ただ単に「日本人は商売っ気がない」「日本人はお金を稼ぐのが嫌いだ」などという、日本人としての気質ではなくて、
いまの日本人、ひいてはゆとり世代といわれるような飽食の世代が持つ感覚と自分が乖離しているのではないか、という恐れです。
ゆとり世代、さとり世代は、飽食の時代を生き、お金についてあまり頓着しないというか、お金よりも余暇や友人とのつながりを大事にするといいます。
その尺度から自分は遠ざかっているのではないか。
もちろん、人の顔色を見ることでしか、自分の位置を認めることができないのか、という批判はあると思います。
みんなと一緒じゃないのが怖いというわけではないんだけど、
「えっ、みんなお金ほしくないの?ほんとに?大丈夫?」みたいに思っています。
NPOに勤めたり、地方で最低限の暮らしをしたり、それこそ最強のニートになったりする人が出てきたり、お金に対する価値観を考え直そうとしてる人が増えているみたいです。
でも、自分はそうはなれないです。いまのところ。
まだ、お金に使われているように思える。
お金という価値観、資本主義がどこまで人を幸せにするのか、という問題がここにはあって、
お金があるだけ与えられて、なんでも手に入れられる生活って幸せなのだろうか、という問題。
いま、この問題に立ち向かってる人って多いと思う。
いっぱい作って、いっぱい捨てる、という価値観ではなんとなくうまく立ち行かなくなってきた。
というよりも、豊かにはなったけど、おもったよりいいものでもなかったということかもしれない。
ほしいものを手に入れた先に、なにがほしかったのかわからなくなるといったような。
カタログ的なものの価値観、つまり、いろんなものがカタログに入っていてそこから「どこそこのアレ」を選び続けていく。カタログはどんどん厚くなるし、こちらはカタログに載っているものがぜんぶほしくなる。
カタログにチェックリストをつけていくような。
チェックリストを放棄するような生き方を目指している人が多いのだと思う。
そういった問題をひらりとかわして(実際はひらりではないのかもしれないけど)いる人をみると、自分がすこしまだまだなんじゃないか、と思ってしまう。
自分はまだ欲を扱いきれていいないから。
そういう人たちはうらやましく見えてしまう。
お金に対するわたしの目標は大事なことは「お金」なのか「お金じゃない」のか見分けられるようになることである。
お金で幸せは買える、買えないものだってあるけれど、買えるものは買える。
聞くところによると、ある一定の水準で得られる幸せは変わらなくなるそうだ。
1000円のワインと100万円のワインでは相当な差があるに違いない。
しかし100万円のワインと1000万円のワインではあまり差は感じられないのだという。
食べ物としてのおいしさというのはあるところで限界が来てしまう。
人間として知覚できるおいしさは金額とは比例しないということらしい。
99点のものを100点にするためには10点を50点にするよりも莫大なコストがかかるということも言えそうだ。
その基準に到達した人には「お金じゃない」といえるのかもしれない。
それは、わからない。
お金って、難しくてよくわからない。
人目のつくところではあまり話すこともできないし、あまりいい顔をされない。
だからとりあえず、ある一定の水準を手に入れられるところまで頑張ってみようと思う。
そうしたらすこしずつわかってくるかもしれない。
今回のきっかけになったもの。
ほぼ日のお金特集。
何回か読み直しているけど、これはとてもおもしろい。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 『お金のことを、あえて。』糸井重里によるイントロダクション。
このエントリは、読み返すために書かれたものです。
あそびあい 蛇足編
以前書いた感想編の続きです。
個人的に気になったことをまとめます。
がっつりネタバレします。
結末 ハッピーエンドかバッドエンドか問題
初めて読んだときは、「ああ、結局小谷は変わらないんだな・・・」ともやもやして、山下と一緒になる未来が想像できなかったんですけど、何回か読んでたらちょっとずつ感覚が変わってきました。
小谷、ちょっと変わったじゃん。
小谷は、卒業式の前日、みおと部屋の片づけをします。そのとき、自分のお皿をいったん空っぽにして、”自分がすきなものでいっぱいにしよう”と決めます。
これが、山下のおかげなのか、というのはちょっと微妙なところですけど。
段ボールの底から、山下からの手紙が出てきたとき、小谷は、あの山下のうちで「セックスをしないで抱きあった」ことを思い出します。
そして一度捨てます。
ものを捨てるって、過去の清算ですよね、いったんなかったことにする。
山下のこともいったんなかったことにしちゃうのかと思いきや、そうじゃない。
卒業式のあと、小谷と山下はつれあって帰るわけですが、ここで小谷は自転車に乗りません。
初めて一緒に帰るときには先に自転車で行ってしまったのに、今回は小谷が待っていてくれます。
誰かに見つかってももうよくなった、と考えるのはちょっと早急に思えます。学校の敷地内かどうかはわかりませんし。
探してみたんですが、ふたりの自転車のシーンって一巻の初めのほうで一緒に帰るときくらいですね。
というか山下はなんで自転車じゃないんだろう。河原で別れ話するシーンでは二人とも乗ってるのに・・・あ!自転車の後ろに小谷を乗せたいだけか!
ともあれ、校門出てから、さっさと自転車に乗らないってことは、山下を待っていたってことですよね。
小谷のお皿の上に山下は乗っけられたんでしょうか。
変わる前の小谷でも、変わった後の小谷でも、山下と一緒に帰っていたような気がします。でも前の小谷だったら、また山下と「したい」と言いそう。
山下の「俺にしてほしいことある?」という問いに「卵買いに行くのつきあって」と答えた小谷。
この答えはイエスなのかノーなのか。
第一話で山下としかしてないこと、として「タイムサービス一緒に並んだ」と小谷は答えています。
で、また特売に並ぶように誘われる。
これは山下をお皿に乗せたと思ってもいいんじゃないか・・・?
と、思うけどさ、今まで小谷が付き合ってきた人って、一緒にスーパーに行ってくれるような人たちじゃないんですよね。
浮気してる金髪のろくでなしとか、第二日曜日にしか会えない家に木が生えてるおっちゃんとか、セックスの時が一番しゃべる八百屋のおいちゃんとか。
周りから見つかったら困るような人とか、特売の時間に一緒にいられない人たちばっかりなんですよ。
山下だったら見つかってもクラスメイト、で済むわけですし。
山下はちょうどよかっただけなのかもしれない。
でも、「したい」って言っちゃったらそれはぜんぜん変わっていない小谷になっちゃう。
かといって「山下とじゃなきゃやだ」って言ってるわけでもないんですよね。
ちょっとキープされてるだけかもしれませんし。
小谷と山下が抱き合ってから卒業式までの間には何も描かれていません。
小谷がいったんお皿をからっぽにすると言ったのは卒業式、引っ越しが決まってからです。
やっぱり想像せずにはいられないんですよね、小谷が他の人としているところを。
勉強を教えてくれる近所の大学生とか、八百屋さんとか、その他もろもろ。
描き方としては小谷は一生懸命勉強した、ということになってるけど、ほかの誰ともしなかったと描き方ではないんです。
行間を読んだらキリがないのはわかってるんですが・・・。
小谷って前日から特売に誘おうと考えてたのかな。卒業式の前日にみおに明日は特売だから遊びに行かずにスーパー行くっていってますし。
結局ハッピーエンドかバッドエンドかなんて結論は出ないんですけど、
山下、これから小谷と付き合って行けるのかな。
小谷目線から見たら、すこし変わって、まっとうになったとは言えるのかも知れないですけど、どうも小谷の本質は変わってないような気がするんですよね……
この違和感がどこに端を発するものなのか、ぜんぜん、わかんないんですが。
蛇足の蛇足
1巻の表紙について
性の支配者としての小谷
小谷がなぜ女王として君臨してられるかというと、セックスにかけるコストがめちゃめちゃ低いからです。
そしてかつ、そのコストに見合わない価値を小谷が有しているからです。
高校生という価値を、破格の値段で売り出しているからです。
小谷はそれをわかってるんですね?
って考えようとしてたんだけどうまくいかなかったのでとりあえず公開。
『マチネの終わりに』 感想:過去に向かって生きるということ
どうも、モロヅミです。
少し前に平井啓一郎さんの『マチネの終わりに』を読みました。
kindle unlimited で読み放題対象になっていたので手に取ったのですが、とても面白かったので感想を書きます。
・・・とはいうもののこないだうっかりkindle読み放題対象から外してしまったので内容を確認する術がないのですが。
(kindle unlimitedは10冊まで読み放題登録ができて、新しいものを読むためには現在登録中の本を削除しないといけないんですよね)
で、その本の中に、「過去は変えられるかどうか」なんて話がでてくるんですね。
主人公とヒロインは「変えられる」というんです。それは、過去に起こった事実を変えることができるという意味ではないんです。
つらい過去があっても、そのつらいことがあったおかげで、自分は前に進むことができた、と考えれば、過去の事実はつらいことではなく、よかったことになりますよね。
確かにそういうことってあるなあ、と思ったんです。
あんまりいい例えじゃないかもしれませんけど、中学校のとき、すきだった女の子に告白しようと一緒に帰りまして、結局告白できなかったんですね。
そしたら次の日先輩に呼び出されて「俺の女に手を出すな」なんてことを言われまして、当時その子が先輩と付き合ってることなんて知らなかったんですね。
そのときはなかなかどうして苦い思い出ではありましたが、今となってはなかなか飲み会で笑っていただけるネタとなってますし。
じゃあそれがどうよかったかといわれると未だに苦いままなんですけど。
つまり、どんな過去もそっくり同じ思い出のまま残しておくことはできないんですよね。
そんなことを意識させられました。
村山由佳の「天使の梯子」という作品にこんなエピソードがあります。
あるとき、主人公のフルチンは愛する祖母を亡くしてしまう。一緒に住んでいた家は祖母を思い出させるから、その場所で暮らしていたくない。
主人公の恋人は彼が祖母と一緒に暮らしていた家の様々な場所で彼とキスをするんです。
「これがこの家での一番新しい記憶よ。つらくなったら思い出して」
思い出は、上書きすることはできないけど、増やすことはできるんですよね。
過去を変えられるわけではないけど、自分の在り方は変えられる。
そう考えていくと、僕らは決して未来に向かって生きているわけでもないのかもしれないですよね。
物事が起こるのは未来だけれど、それを作っているのは過去なわけだし。
当たり前ですけど。
過去に向かって生きる、というと後悔して前に進んでいないようにも思えるけれどもそうではない側面もあるんじゃないかな、と思っています。
最近僕は、過去の自分を救わなきゃいけないような気がしてます。
人生の岐路に立たされた時、自分は正しい行いだけをしてきただろうか?
決してそんなことはなくて、あの時ああすればよかった、あのときあれをしなければ、なんて後悔はしょっちゅうあります。
なかでも自分が努力してこなかったことや、自分が道を誤ったことについては今の自分しか救えないんじゃないか、なんて。
つまり、過去の失敗の埋め合わせをしてあげることで、失敗や、過ちをきちんと消化できるんじゃないかな、と。
こないだ、自分の職場から転職した人が言ってました。
「自分は高校、大学と、全然努力をしてこなかったし、自分の人生についてなにも考えてこなかった。だからそれなりに苦しんできたし、大変だった。苦しんでいるままだと、昔の自分のせいになってしまう。そういう意味では過去の自分に手を差し伸べているような気分なんです」
過去の自分を救うことは、過去の自分の行動にきちんと意味を見つけてあげること、そして、決着をつけてあげることなのかな、なんて思っています。
『マチネの終わりに』の感想としてこれでよかったのかな感はなくはないですけど、これに関してはおもしろかったので皆さんにお勧めしておきます。